こんにちは!
今日は、海軍左派三羽烏について紹介したいと思います!
海軍左派三羽烏とは、阿川弘之の著書で条約派と評される3人の軍人です。
海軍左派三羽烏に選ばれたのは、
米内光政(よないみつまさ)
山本五十六(やまもといそろく)
井上成美(いのうえしげよし)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
米内光政
米内光政とは、昭和期の軍人、政治家。
1901年(明治34)海軍兵学校第29期卒業。
戦艦陸奥(むつ)艦長などを務めた後、第3艦隊、佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)、第2艦隊、横須賀鎮守府の各司令長官等を歴任し、1936年(昭和11)連合艦隊司令長官となった。
1937年2月林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内閣の海相に就任。
同年海軍大将。
以後第1次近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)両内閣の海相に留任。
この間1937年日中戦争が始まると、8月以後拡大方針に転換し、1938年1月「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」との強硬方針に与したが、陸軍の日独同盟政策には山本五十六(やまもといそろく)海軍次官、井上成美(いのうえしげよし)軍務局長と共に反対し挫折(ざせつ)させた。
1940年1月予備役となって内閣を組織したが、親英米的であるとして陸軍や「革新派」の攻撃を受け、7月、日独伊三国同盟政策を進める陸軍の策謀で倒された。
1944年7月太平洋戦争の戦局悪化の中で現役に復帰し、小磯国昭(こいそくにあき)内閣の副総理兼海相に就任。
以後、海軍の解体まで鈴木貫太郎、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)各内閣の海相に留任し、戦争終結と敗戦処理の為に尽力した。
昭和23年4月20日死去。
スマートで穏和な人柄の人物であり、海軍穏健派のエース的存在であった。
山本五十六とは、昭和期の海軍軍人。
第1次世界大戦後の3回に渡る在米勤務の後、いち早く航空機の将来性に着目。
1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。
航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し、攻撃力に重点を置いた航空機開発、部隊編制に尽力した。
1936年海軍次官。
1939年より連合艦隊司令長官としてハワイ・ミッドウェー作戦等を指揮したが、昭和18年4月18日ソロモンで戦死。
国葬。
元帥。
井上成美
井上成美とは、海軍軍人。
宮城県に生まれる。
海軍兵学校37期。
海軍大学校卒業後、イタリア大使館付武官、「比叡(ひえい)」艦長、横須賀鎮守府参謀長等を歴任した。
1937年(昭和12)軍務局長に就任し、米内光政(よないみつまさ)海相、山本五十六(やまもといそろく)次官と共に日独伊三国同盟締結に反対した。
1940年航空本部長として軍令部の大艦巨砲主義を批判し、海軍の空軍化を主張。
1941年第4艦隊司令長官となり、翌1942年サンゴ海海戦を指揮。
同年海軍兵学校長となり、英語教育を存続させる等合理精神を発揮した。
1944年海軍次官。
1945年大将。
戦後は神奈川県横須賀に隠棲(いんせい)し英語塾を開く。
陸軍大将阿部信行(あべのぶゆき)は義兄。
如何でしたか?
山本五十六は、聞いたことあるのではないでしょうか?
最近だと、映画『アルキメデスの大戦』に登場していましたね。
あの時、航空機を中心とした戦い方をしていたら、どうなっていたか気になります。
最後までお読み頂き有難う御座いました!