こんにちは!
今日は、上方落語四天王(昭和)について紹介したいと思います!
上方落語四天王(昭和)に選ばれたのは、
笑福亭松鶴 (6代目)(しょうふくていしょかく)
桂米朝 (3代目)(かつらべいちょう)
桂春団治 (3代目)(かつらはるだんじ)
桂文枝 (5代目)(かつらぶんし)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
笑福亭松鶴 (6代目)
笑福亭松鶴 (6代目)とは、落語家。
本名竹内日出男。
笑福亭松鶴(6代目)の二男。
母方の祖父は 林家正楽(6代目)。
丁稚奉公に出るが徴兵検査を機に辞め 26歳まで放蕩をして暮らす。
1944年頃父のマネージャーとして慰問団の番組作りや、時には前座で高座に上がったりもした。
1947年父に入門し、笑福亭松之助として正式に初高座。
1948年笑福亭光鶴(3代目)、1953年笑福亭枝鶴(4代目)を経て、1962年笑福亭松鶴(6代目)を襲名。
戦後滅亡の危機にあった上方落語復興に尽力、桂米朝(3代目)、桂春団治(3代目)、桂文枝(5代目)と共に戦後上方落語四天王と呼ばれる。
1968~77年上方落語協会会長を務め、その間、1972年に島之内教会で月 5日の落語の寄席(島之内寄席)を開催した。
得意ネタは『らくだ』『一人酒盛』『高津の富』等。
角座の漫才や音楽ショーの間に『相撲風景』等で爆笑をとった。
テレビドラマ『どてらい男』(関西テレビ放送系)の将軍役で茶の間にも知られた。
若い頃は酒や女性に纏わる逸話も多く「無茶者」と呼ばれた。
桂米朝 (3代目)
桂米朝 (3代目)とは、落語家。
本名中川清。
大東文化学院中退。
1943年正岡容に師事。
戦後滅亡の危機にあった上方落語の復興に尽力、笑福亭松鶴(6代目)、桂春団治(3代目)、桂文枝(5代目)と共に戦後上方落語四天王と呼ばれる。
1969年頃から全国で独演会を開催、その後、大阪サンケイホールで定期的に独演会を開催する。
得意ネタは『百年目』『はてなの茶碗』『住吉駕篭』等に、『地獄八景亡者戯』等の大作や、『矢橋舟』『算段の平兵衛』等古いネタを復刻した。
自作の新作落語『一文笛』は東西で演じる人も多い古典ともいえる名作。
1996年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、2009年文化勲章受章。
研究者としても活躍、帝塚山学院大学で講師を務めた他、『米朝落語全集』(7巻、1980~82)はその後の落語家たちの教科書ともなった。
『上方芸人誌』(1976)、『上方落語ノート』(1978)、『落語と私』(1986)等著書も多数。
門下に桂枝雀(2代目)、月亭可朝、桂ざこば、桂米団治(5代目)(長男)らがいる。
桂春団治 (3代目)
桂春団治 (3代目)とは、落語家。
本名河合一。
桂春団治(2代目)の実子。
桂福団治(2代目)を経て、1959年に桂春団治(3代目)を襲名。
上方落語復興に尽力し、桂米朝(3代目)、笑福亭松鶴(6代目)、桂文枝(5代目)と共に戦後上方落語四天王と呼ばれた。
1977~84年、上方落語協会会長を務めた。
華やかで洗練された芸風で知られた。
桂文枝 (5代目)
桂文枝 (5代目)とは、落語家。
本名長谷川多持。
天王寺商業学校を戦争で中退、大阪市交通局に勤めるが、同僚の紹介で桂文枝(4代目)に入門、桂あやめとなる。
師匠が松竹と袂を分かったが、あやめは松竹に残り笑福亭松鶴(5代目)の預かりとなって多くのネタを学ぶ。
一時、歌舞伎の囃子方に転職したり闘病で入院生活を送るが、1954年落語家に復帰し、桂小文枝(3代目)を襲名する。
1970年吉本興業の専属となる。
1971年『東京小文枝の会』が発足、以後東京でも度々独演会が開催された。
1992年桂文枝(5代目)襲名。
2003年旭日小綬章受章。
得意ネタは『舟弁慶』『たちきれ線香』『辻占茶屋』『蛸芝居』『浮かれの屑より』等。
女性が登場する噺や、はめもの(鳴物の入る噺)をやらせれば他の追随を許さなかった。
戦後、壊滅状態と言われた上方落語を復興させた1人で、桂米朝(3代目)、笑福亭松鶴(6代目)、桂春団治(3代目)と共に戦後上方落語四天王と呼ばれる。
著書『あんけら荘夜話』(1996)。
弟子に桂文枝(6代目)、桂文珍ら今日の上方落語を牽引する落語家たちがいる。
如何でしたか?
名前自体は、聞いたことがある人もいるでしょう。
桂文枝(5代目)の弟子である桂文枝(6代目)は、『新婚さんいらっしゃい!』という番組で有名ですね。
元々桂三枝という名前でしたね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!