こんにちは!
今日は、新田四天王について紹介したいと思います!
新田四天王に選ばれたのは、
篠塚重広
畑時能(はたときよし)
由良具滋(ゆらともしげ)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
栗生顕友とは、南北朝時代の武士。
上野(こうずけ)(群馬県)の人。
新田義貞(にったよしさだ)に仕える。
建武(けんむ)3=延元元年(1336)義貞が恒良(つねよし)親王らと越前(えちぜん)(福井県)金崎城に籠ろうとした時、城を取り囲んでいた足利尊氏の軍勢を計略をもって欺き、入城に成功したという。
通称は左衛門。
篠塚重広
篠塚重広とは、南北朝時代の武将。
伊賀局(いがのつぼね)の父。
新田義貞(よしさだ)に従って北朝軍と戦い、建武(けんむ)3=延元元年(1336)近江(おうみ)(滋賀県)園城(おんじょう)寺攻撃で大力を発揮したと伝わる。
後伊予(いよ)(愛媛県)守護の大館(おおだち)氏明と伊予世田山城による。
康永元=興国3年細川頼春(よりはる)に攻められ、金棒を振るって沖島(現魚島)に逃れたという。
伊賀守。
畑時能とは、鎌倉〜南北朝時代の武将。
武蔵(むさし)秩父郡(埼玉県)の人。
義貞の敗死後、越前(えちぜん)で斯波高経(しばたかつね)と戦い、義助の杣山(そまやま)城陥落後も鷹巣(たかのす)城を死守したが、伊知地(いじち)山の合戦で暦応(りゃくおう)4=興国2年戦死した。
通称は六郎左衛門。
由良具滋とは、鎌倉〜南北朝時代の武将。
正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年新田義貞(よしさだ)の鎌倉攻めに従う。
竹下の戦い、京都合戦などで足利尊氏の軍と戦い、建武(けんむ)4=延元2年3月6日越前(えちぜん)(福井県)金ケ崎で戦死。
通称は新左衛門。
如何でしたか?
中々マイナーな4人ですね。
私は、新田義貞は知っていましたが、この4人は1人も知りませんでした。
最後までお読み頂き有難う御座いました!