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日本童話の三傑って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本童話の三傑について紹介したいと思います!

 

日本童話の三傑に選ばれたのは、

小川未明

坪田譲治

浜田広介

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

小川未明

 

 

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小川未明とは、小説家、童話作家

本名は健作。

雅号の未明は師の坪内逍遙(つぼうちしょうよう)が付けてくれたもので、正しくは「びめい」と読むが、今日一般には「みめい」と読まれている。

明治15年4月7日、新潟県高田に旧士族の1人息子として生まれる。

数学の成績が悪いため高田中学校を3回落第、創立まもなくの自由な雰囲気のあった早稲田(わせだ)大学英文科に学んだ。

在学中に書いた小説『紅雲郷』のロマンチックな傾向を坪内逍遙に認められ、続いて書いた『霰(あられ)に霙(みぞれ)』で明治末期の新ロマンチシズム文学の有望な新人と認められた。

生来的に短編小説に優れており、処女短編集『愁人(しゅうじん)』(1907)をはじめ十数冊の短編小説集を世に送り、長編小説は『魯鈍(ろどん)な猫』(1912)1作しかない。

大正期に入ってからは社会主義的な傾向を強め、労働文学の雑誌『黒煙』を指導する傍ら日本社会主義同盟の創立にも参加した。

またこの時期には、大正デモクラシー思潮に支えられた『赤い鳥』の創刊なども影響して、処女童話集『赤い船』(1910)以後暫く筆を絶っていた童話も盛んに書くようになり、『赤い蝋燭(ろうそく)と人魚』(1921)をはじめ幾冊もの童話集を刊行、近代的な児童文学の興隆に大きく寄与した。

大正末期に至ると、生得のロマンチックな性向と社会主義的な文学理論との違和が決定的となり、『未明選集』全6巻(1925)の刊行を機に童話作家として専念することを決意、以後は児童文学者として生き抜いた。

昭和36年5月11日没。

第二次世界大戦の敗戦までの未明は文壇的にも文学実質的にも日本児童文学最大の存在であった。

戦後10年ほどたって新たな児童文学運動がおこる時点で、彼の童話の象徴的方法は批判され否定されたが、近年は文学史的にその価値が評価されるようになってきている。

 

 

 

 

 

坪田譲治

 

 

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坪田譲治とは、小説家、児童文学者。

明治23年3月3日、岡山県に生まれる。

1908年(明治41)早稲田(わせだ)大学文科予科に入学。

在学中小川未明(みめい)に師事するが、病気や入営などで退学・再入学を繰り返した後、15年(大正4)早稲田大学英文科を卒業。

その後帰郷して家業の製織所に勤め、家業と文筆との苦しい生活が続く。

26年『正太の馬』を出版。

同年『赤い鳥』に最初の童話『河童(かっぱ)の話』を発表。

その後同誌発表の『善太と汽車』で鈴木三重吉(みえきち)の激賞を受け、『ろばと三平』『どろぼう』『魔法』『びわの実』など40編余りを『赤い鳥』に発表する。

33年(昭和8)以後は文筆に専念、35年『改造』に発表した『お化けの世界』は好評を得、出世作となった。

36年9月から『朝日新聞』に連載された『風の中の子供』は、子供の心情が社会と関わるところで描かれた作品で、文壇的地位を確固たるものにした。

38年には『子供の四季』を『都新聞』に連載、翌年新潮社文芸賞を受賞。

54年(昭和29)『坪田譲治全集』全8巻が刊行され、この全集で翌年芸術院賞を受賞。

63年には童話雑誌『びわ実学校』を創刊。

64年芸術院会員となる。

昭和57年7月7日、92歳で没す。

 

 

 

 

 

浜田広介

 

 

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浜田広介とは、児童文学者。

明治26年5月25日、山形県置賜(ひがしおきたま)郡屋代村一本柳(現高畠(たかはた)町)に生まれる。

中学校時代はアンデルセン童話を愛読した。

山形県立米沢(よねざわ)工業染織科に入学したが半年で退学、島崎藤村(とうそん)、蒲原有明(かんばらありあけ)、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、北原白秋(はくしゅう)らを耽読(たんどく)してますます文学に関心を抱き、1914年(大正3)早稲田(わせだ)大学高等予科に入学、ロシア文学に親しんだ。

早大時代『萬朝報(よろずちょうほう)』に小説『零落』その他が投稿入選。

17年処女童話『黄金(こがね)の稲束』が『大阪朝日新聞』に入選、賞金50円を得て生涯の道が定まった。選者巌谷小波(いわやさざなみ)は、この作品が人間の善意のみで描かれていることを賞賛した。

早大卒業後、片上伸(のぶる)の紹介で春秋社の『トルストイ全集』を編集。

さらに童話雑誌『良友』の編集に従事、傍ら同誌に『花びらの旅』『むく鳥の夢』を発表して認められた。

その作風はストーリー性よりも情緒性を重んじ、詩的香気ある平仮名短編童話作家として定評を得るに至った。

21年第一童話集『椋鳥(むくどり)の夢(ゆめ)』を刊行以後、多くの童話集を刊行、小川未明(みめい)と共に童話を文学の1ジャンルとして定着させた功績は大きい。

代表作に『泣いた赤鬼』がある。

55年(昭和30)に日本児童文芸家協会を設立、初代理事長となった。

芸術選奨サンケイ児童出版文化賞などを受賞。

昭和48年11月17日没。

郷里に広介墨跡保存会がある。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

私は、小川未明は名前くらいしか知らず、後の2人は全く知りませんでした。

童話に関して、あまり詳しくないことが露呈されてしまいました。

文学においても、勉強していきたいと思います!

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!