こんにちは!
今日は、世界三大建築について紹介したいと思います!
世界三大建築に選ばれたのは、
ハギア・ソフィア
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
アテネ(古代名アテナイ)のアクロポリスに建つ古典初期のもっとも優れた建築。
対ペルシア戦争の勝利を感謝してアテネ市の守護女神アテネに捧(ささ)げた神殿。
彫刻家フェイディアスの総監督のもとに設計はイクティノス、施工はカリクラテスが担当、紀元前447年に起工し、前438年ころ完成した。
そのプランは、東西八柱、南北17柱、床面30.8m×69.5m、ドーリス式の周柱堂で、内部は東側にプロナオス(前室)と本尊を安置するナオス(内陣)、西側にオピストドモス(後室)とパルテノン(処女宮)の四室からなる。
これらの内部の柱や梁(はり)は、外周の荘重なドーリス様式とは対照的に優美なイオニア様式を採用している。
神殿を飾る彫刻では、フェイディアス作の黄金と象牙(ぞうげ)の巨像アテナ・パルテノス(処女のアテネ)像が本尊として内陣に安置されていたほか、東西両破風(はふ)の東側に「女神アテネの誕生」、西側に「アテネとポセイドンのアッティカの支配権争い」の大群像彫刻を配し、屋根の下の四方を飾る92面のメトープには神話上の四つの物語、さらに内陣上部のフリーズには汎(はん)アテナイア祭の大行列が全長約160mにわたって浮彫りにされている。
これらはいずれも古典初期の傑作である。
この建物はビザンティン時代の426年にハギア・ソフィア聖堂として内部が改修され、このとき本尊がコンスタンティノポリスに運ばれたとされる。
トルコ占領時代(1458~1833)にはモスクに変えられ、1687年9月のベネチア軍の砲撃で、トルコ軍がここに収蔵していた火薬が爆発、フリーズの4分の3、28基の円柱などが崩壊した。
今日、群像彫刻やメトープ、フリーズの浮彫りの大部分は、いわゆる「エルギン・マーブルズ」としてロンドンの大英博物館に、一部がアクロポリス美術館とパリのルーブル美術館にある。
115~125年ごろ、ハドリアヌス帝によって建てられた、ローマ最大の円蓋(えんがい)建築。
完成はアントニヌス・ピウス帝(在位138~161)時代。
円形本堂の内径ならびに天井の高さはいずれも43.2m、壁の厚さ6.2m。
北側入口にコリント式柱前柱式の突出廊があり、柱の高さは12.5m。
本堂内部には七つの壁龕(へきがん)が設けられ、おそらくユピテル(ジュピター)、アポロン、ディアナ(ダイアナ)、メルクリウス(マーキュリー)などの七至上神が祀(まつ)られていたと考えられる。
ドームの内側は円蓋天窓の部分を除いて放射状に全部で28列の格間(ごうま)で覆われ、それぞれの格間は五段ずつになっている。
採光はドーム頂上に設けられた円形天窓(直径7.5m)だけで、壁面には窓はなく、巨大な堂の外形はまったく無装飾である。
この神殿は、その数的比例の美と壮大な内部空間の創造という当時の驚くべき土木技術により、西洋建築史上不朽の名作の1つに数えられる。
パンテオンは7世紀初めその所有権が教皇の手に渡り、キリスト教の寺院となった。
ラファエッロら有名人のほか、近代イタリア諸王が埋葬され、国家的墓廟(ぼびょう)となっている。
なお、パンテオンのあるローマ歴史地区は教皇領、サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会とともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
パンテオンの名称は、「すべての神々の神殿」といった意味であるが、今日では国家的栄誉のある物故者に捧(ささ)げられる建物の意味に用いられ、この種の例としてはサント・ジュヌビエーブ修道院聖堂を霊廟とした「パリのパンテオン」が有名である。
ハギア・ソフィア
ハギア・ソフィアとは、トルコのイスタンブールにある聖堂建築。
この地がビザンティン帝国の都としてコンスタンティノポリスとよばれていた6世紀の建造。
1453年以降トルコの支配下に入ってイスラム教のモスクとなり、四基のミナレットが加えられ、アヤ・ソフィアとよばれることとなったが、もとはハギア・ソフィア大聖堂と称されたビザンティン建築の傑作である。
「ハギア・ソフィア」とは「神聖なる叡知(えいち)」、つまり聖三位(さんみ)一体の第二のペルソナであるロゴス、キリストをさしたものと思われる。
4世紀のコンスタンティヌス帝と後継者の時代に建造された聖堂(360年献堂式)が532年のニカの反乱によって破損したのち、ユスティニアヌス帝(在位527~565)はまったく新しい設計に基づいて再建を開始した。
設計はトラレスのアンテミウスとミレトスのイシドロスがあたり、100人の監督の下に1万人の工人が働いて5年10か月で完成した。
当時としては異例の速さであり、537年12月7日に献堂式が行われた。
基本的にはラテン十字形プランの三廊式バシリカに大円蓋(えんがい)をかぶせた円蓋式バシリカ型聖堂であるが、中央に大円蓋を置くという当時の建築家の夢を実現させるために、奥行77m、幅71.7mとほぼ正方形のギリシア十字形プランに近い。
直径33m、床面からの高さ56mの大円蓋の重さを支えるために4本の大支柱と大アーチ、三角穹隅(きゅうぐう)を採用、東西に円蓋と同じ幅をもつ2個の半円蓋を設置するなど、独創的な構造が認められる。
献堂式に臨んだ皇帝は深く感動し、「おおソロモンよ、われ汝(なんじ)に勝てり!」と叫び敬虔(けいけん)な祈りを捧(ささ)げたという。
現在は無宗教の博物館になっているが、20世紀に入ってのアメリカ考古学隊の清掃作業により、イスラム教支配下の長い間漆食(しっくい)に覆われていたモザイク壁画が次々と姿を現した。
しかし献堂当時のものは装飾モチーフなどのわずかなものにすぎず、ほとんどはイコノクラスム(聖画像破壊運動)終結後の9世紀以降のものである。
如何でしたか?
どの建物も歴史的な風格を感じますね。
私は、ギリシャもイタリアもトルコも行ったことがないので、機会があれば行ってみたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!