こんにちは!
今日は、国鉄三大ミステリー事件について紹介したいと思います!
国鉄三大ミステリー事件とは、連合国軍占領下の日本において1949年(昭和24年)の夏に相次いで発生した、日本国有鉄道にまつわる真相に謎が残る3つの事件の通称です。
国鉄三大ミステリー事件の3つとは、
です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
下山事件とは、1949年(昭和24)7月5日、国鉄初代総裁下山定則(さだのり)(同年6月1日就任)が行方不明となり、翌6日常磐(じょうばん)線綾瀬(あやせ)駅付近で轢死(れきし)体となって発見された事件。
死因をめぐり自殺説、他殺説が捜査当局、ジャーナリズム、法医学界それぞれを二分するという前例のない事態となった。
半年後、警視庁は自他殺を明言しないまま捜査本部を閉じ、真相は謎(なぞ)に包まれたまま64年の時効成立で迷宮入りとなった。
事件に関する各種資料のほとんどはなお未公表である。
当時ドッジ・ラインの1つの柱として行政機関職員定員法による人員整理(定員3割減)が予定されており、国鉄9万5000人の首切りは、官公労組織の中核、国鉄労組との対決という点でも、一連の整理の最大の山であった。
事件は、ストを含む実力行使の方針を決定していた国鉄労組の反対闘争の出鼻をくじき、さらに民間側の人員整理にも大きな影響を与えた。
三鷹(みたか)、松川両事件と並び戦後史の大きな転機をつくった事件である。
三鷹事件とは、1949年(昭和24)7月15日午後9時過ぎ、国鉄の中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、死者6人(一審判決)ほか重軽傷者を出した事件。
これに先だつ7月12日、国鉄当局は約6万3000人の第二次人員整理のため解雇通告を始めたが、7月15日の国鉄労組中闘委員会は反対運動をめぐって統一左派と民同派が対立、分裂状態に陥っていた。
事件はこの夜起こり、翌日吉田茂首相は、一部の組合や共産党が社会不安を挑発、扇動していると断じた。
捜査当局も、共産党の国鉄労組関係者が反対闘争を盛り上げるために行った犯行と断定、三鷹電車区分会員など10人を「電車往来危険、同転覆、同致死罪」で起訴した。
分会員9人はすべて解雇者であり、竹内景助以外は共産党員であった。
下山(しもやま)事件に続くこの事件は、国労の反対闘争に大打撃を与え、国労中央委員会がストを含む実力行使の方針を撤回する一方で、解雇は順調に進んだ。
公判では、被告らの共同謀議に基づき列車暴走、転覆をねらった犯行か否かが争点となったが、1950年8月11日の一審(東京地裁)は、共同謀議は実体のない「空中楼閣である」として、単独犯行を主張した竹内被告を無期懲役にしたほか、他の9被告には無罪を宣告した。
ついで51年3月30日の二審も、共同謀議は証明不十分として一審を支持したが、竹内には死刑を言い渡した。
55年6月22日、最高裁は8対7という僅差(きんさ)の多数決で上告棄却、刑が確定した。
竹内被告は上告審前後から無実を主張し、棄却後も再審を請求していたが、再審決定審理中の67年1月病死した。
なお、最高裁が口頭弁論を開かず判決を言い渡したことが、学界・法曹界で問題化し、以後最高裁における死刑事件審理では口頭弁論を開く慣行が生まれた。
松川事件とは、1949年(昭和24)8月17日午前3時9分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。
人為的な鉄道線路破壊が原因であった。
事件発生後1か月して、当時19歳の元国鉄工手の自白調書(いわゆる赤間(あかま)自白)に基づき、捜査当局は国鉄労組福島支部員と東京芝浦電気(東芝)松川工場労組員の共同謀議に基づく犯行と断定、最初の逮捕者を含め国鉄側10人、東芝側10人、計20人を起訴した。
その大半は共産党員であった。
当時ドッジ・ラインに沿って行政整理、企業整備が進められていたが、9万5000人の解雇をめぐる国鉄労使の対決はその成否を握っていた。
この対抗の最中に起こったのが下山(しもやま)、三鷹(みたか)事件であり、両事件で行政整理反対の闘争意識をくじかれた国鉄労組を三たび襲った怪事件が松川事件であった。
しかも、国労福島支部は左派が指導権をもち、反対闘争の拠点支部の1つであった。
また東芝は民間企業整備で最大の注目を集めていた経営で、松川工場では東芝労連の指導下でスト突入を予定していた。
事件発生の翌日、増田官房長官は「今回の事件はいままでにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じものである」との談話を発表したが、捜査はこの談話の方向で進められ、地域的・全国的な労組の闘争、共産党の活動に大きな打撃を与えた。
裁判では、自白者も含め全被告が犯行を否認し、この自白の信憑(しんぴょう)性、取調べの際に拷問、強制があったか否かが最大の問題となった。
一審の福島地裁は、1950年12月6日、死刑5人、無期懲役5人を含め全員有罪を宣告し、53年12月22日の二審仙台高裁判決も、3人を無罪としたほかは死刑を含む内容であった。
しかし、上告審に至って、検察側が押収していた、被告らのアリバイを証明する「諏訪(すわ)メモ」の存在が明るみに出て、検察の主張する共同謀議説が崩れた。
このため最高裁は多数意見(7人、反対5人)をもって、仙台高裁差戻しを命じた。
裁判の流れを変えた背景には、新証拠の発見とともに大衆的裁判闘争の発展があった。
国民に無実と判決の不当を訴える被告自身の通信活動(約15万通)、被告家族の全国行脚(あんぎゃ)による訴えにこたえ、支援体制は未曽有(みぞう)の広がりをみせた。
弁護団は二審後173人という空前の規模に達し、志賀直哉(しがなおや)、吉川英治(よしかわえいじ)、川端康成(かわばたやすなり)、宇野浩二(うのこうじ)ら文化人も公正裁判を要請した。
なかでも広津和郎(ひろつかずお)は1953年秋、雑誌『中央公論』に「真実は訴える」を発表し、第二審判決後は同誌に54年4月号から4年半にわたり「松川第二審判決批判」を連載、世論をリードした。
58年3月9日には、総評、国労、日本ジャーナリスト会議、自由法曹団、国民救援会など四十数団体、および個人が参加する全国組織「松川事件対策協議会」が結成され、その後、松川大行進現地調査、松川劇映画運動(370万人観客動員)などを通じて公正裁判要求、無罪要求を国民世論にしていった。
こうした支援運動のなかで、最高裁決定を受けた仙台高裁は、多数の証人尋問、現場検証実施、書証提出など事件全体を調べ直し、1961年8月8日、「犯行の直接の決め手は自白のみ」、その自白の信用性は認められず「赤間自白なくして松川事件は存在しない」、実行行為の中心者とされる者のアリバイも明確であり、事件の根幹は大きく揺らいだ、として、被告全員に無罪を言い渡した。
ついで、63年9月12日、最高裁は検察側上告を棄却し、14年の歳月を要した裁判は終わった。
しかし、翌年8月、事件は時効となり、米軍謀略説もあるが、真相は現在に至るも不明である。
なお、無罪確定後、元被告人は国家の賠償を求めて訴訟を起こし、1969年4月23日一審、70年8月1日に二審判決が行われた。
賠償額は7600万円余であった。
如何でしたか?
いずれも真実が分からないミステリーな事件ですね。
どうやら労働組合が関係していたようですね。
私自身、日本史で少し勉強したくらいだったので、とても勉強になりました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!