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日本五大港って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本五大港について紹介したいと思います!

日本五大港は、日本主要五港とも呼ばれます。

 

日本五大港に選ばれたのは、

東京港

横浜港

名古屋港

大阪港

神戸港

の5つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

東京港

 

 

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東京港とは、

東京都南東部、東京湾奥の隅田川河口地区を中心として中央、江東、港、品川、大田の5区に跨る港。

1941年(昭和16年)、外国貿易港として開港指定を受け、名古屋港、横浜港、大阪港、神戸港とともに日本の五大港とされる。

2012年の貿易額では名古屋港に次いで第2位の13兆1444億円である。

2011年の入港船舶数は2万6358隻、取扱い貨物量は8339万5000tとなっている。

東京都港湾局が東京港の振興及び管理運営を行う。

江戸時代から隅田川河口一帯の河港であり、貿易に関しては横浜の外港に依存した。

しかし、関東大震災を契機として、大型船の入港できる海港の必要性から港湾施設の整備に努め、河港から海港に性格を変えた。

1925年(大正14年)、3000t級の船が接岸できる日之出桟橋の建設を最初として、芝浦、竹芝の各桟橋が完成。

更に品川、晴海、豊洲の各埠頭が建設された。

第二次世界大戦後、東京湾開発を計画し、2440haを埋め立て、外貿コンテナ埠頭大井埠頭と13号地、新木場の15号地、内貿の辰巳、有明の各地区が完成し、これらの埋立地は幅100mの東京環状道路(首都高速道路湾岸線)で結ばれた。

東京港は3000tから2万t級の船舶60隻が同時接岸できる大規模な港に発展し、その後大井埠頭の改修工事により、2013年4月より14万t級の客船が停泊できるようになった。

更に中央防波堤の内、外側及び羽田沖に約1000haの埋立地が計画され、2008年(平成20年)までに約5730haの埋め立て地が完成した。

竹芝桟橋からは伊豆諸島、小笠原諸島との貨客船等が、日の出桟橋からは水上バス等が発着している。

 

 

 

 

 

横浜港

 

 

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横浜港とは、横浜市にある国際戦略港湾で、東日本の代表的国際貿易港。

貿易額は港湾の中では名古屋、東京に次いで全国第3位であるが、空港も含めると第4位となっている(2003年)。

港域は、元は鶴見川河口から本牧十二天の鼻先までの間であったが、第二次世界大戦後は本牧地先、根岸湾、金沢地先等の埋め立て事業によって拡張された。

港の管理は1951年(昭和26年)に国から横浜市に移管されている。

横浜港は1859年(安政6年)6月2日に開港された。

当時の港は洲干島(山手丘陵から続く砂嘴)の北西端の横浜村に設けられた。

幕府は、村の中央に運上所、北の海岸に波止場2ヶ所を作り、東波止場を外国貿易用、西波止場を内国用とした。

1860年(万延1年)には輸出額320万円、輸入額300万円となり、それらの全国比は輸出86%、輸入71%で、日本の貿易に独占的地位を占めていた。

1869年(明治2年)に東京へ都が移されると、横浜港はその外港とされ、1880年代からの築港工事は殆ど国費で進められ、大桟橋(客船専用)、新港埠頭(外国貿易用)、高島埠頭(内国用)等が完成し、鶴見、大黒町等に民間埠頭が建設された。

これらの諸施設は1923年(大正12年)の関東大震災で全壊し、その復興後十数年して第二次世界大戦の戦災によって、再び大被害を受けた。

第二次世界大戦後は、戦災を免れた港湾施設の大半が占領軍であるアメリカ軍に接収されて、長い間使用できなかった。

1952年(昭和27年)に接収は解除され、修築、拡張と臨海工業地帯の造成事業が1950年代から1990年代にかけて行われ、現在は商港であるとともに、工業港としての性格も持っている。

そして鶴見、大黒、本牧の諸埠頭や根岸湾岸、金沢地先等には工業用地が造成され、石油精製、製鉄、食料品、機械等の大工場や市内中心部の中小工場が進出、移転し、それぞれの専用岸壁や桟橋が設けられた。

また、上屋、倉庫等の陸上設備の整備、航路、泊地の浚渫も行われている。

本牧埠頭にはコンテナ専用岸壁がある(1968年フルコンテナ船の第一船入港)。

また、港湾に密接する陸上交通も整備されている。

1989年(平成1年)に開通した横浜ベイブリッジは、首都高速道路と直結されて渋滞解消に貢献するだけでなく、みなとみらい21MM21)地区(1983年着工、1991年桟橋完成)のシンボルである横浜ランドマークタワー(1993年完成)とともに「みなと横浜」の新名所にもなっている。

2004年には横浜高速鉄道みなとみらい21線(横浜〜元町・中華街)が開通した。

横浜港の貿易は、開港当初は他の国内諸港と同じく、外国商社(商館)主導型で、輸出入とも全てそれらの手を通じてなされる商館貿易で行われていた。

これに対して20年間にも渡った日本商社の是正運動と政府の外交交渉によって、明治中期に差別条項が撤廃された。

輸出品は、当初は生糸(70%)と茶(20%)で占められ、この傾向は第二次世界大戦前まで続いた。

戦後は、金属機械工業品(鉄鋼、自動車、電気機器)、化学工業品、雑工業品が主となり、後背地の産業に結び付いている。

現在の輸出品は、自動車及びその部品、産業機械、染料等化学工業品、鋼材等が上位を占めている。

輸入品も変遷し、大正期の原料品(綿花、羊毛)、素材(鉄鋼その他)は、戦後は原料品(石油)、食料品(麦類、雑穀、豆)、加工用機械と変化していった。

現在は、これらに非鉄金属、電気機器、衣類等が加わっている。

主な貿易相手国は、中国、アメリカ、オーストラリア、アジアNIES等。

2003年(平成15年)の貿易額は、輸出が6兆0920億円、輸入が2兆8638億円で、日本経済の不況を反映して減少傾向にある。

外国航路の利用客は、航空機利用の発展に伴い減少傾向を辿り、年数便の観光客船に留まっている。

 

 

 

 

 

名古屋港

 

 

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名古屋港とは、名古屋市南部にある貿易港。

江戸時代の東海道五十三次の宮の渡し(七里の渡し)が発祥の地。

1896年(明治29年)、浅海を浚渫して近代港湾とする築港が開始され、1907年(明治40年)、伊勢湾では四日市港に次いで2番目の開港場となった。

1951年(昭和26年)、特定重要港湾に指定された(2011年、港湾法改正により、国際拠点港湾に変更)。

2010年(平成22年)現在、日本の5大港(東京、横浜、名古屋、大阪、神戸)に占める地位は、総取扱貨物量、総貿易額ともに1位、入港船舶総t数4位、外貨コンテナ取扱量3位にあり、外国貿易取扱貨物量では1982年から連続1位の座を保持している。

扱う輸出品種は完成自動車47.6%、自動車部品19.1%、輸入は液化天然ガス24.4%、鉄鉱石15.3%である。

また、年間50隻を超える客船の入港もあり、工業港と商業港の性格を併せ持つ、日本を代表する総合国際港湾の1つである。

港の範囲は名古屋市東海市知多市弥富市飛島村に跨る水面8194万㎡、陸地4215万㎡に及び、1951年に愛知県と名古屋市が共同設立した名古屋港管理組合によって管理運営されている。

近年は市民に親しまれる港作りが進み、金城埠頭の国際展示場(1973年完成)や海づり公園、ガーデン埠頭のシンボルタワーを兼ねた高さ63メートルのポートビル(1984年)、永久保存された南極観測船「ふじ」(1985年)、しおかぜコンサートが開かれるポートハウス(1986年)、南極への旅をテーマとする名古屋港水族館(1992年)、伊勢湾岸自動車道の一部で港をまたぐ3本の橋「名港トリトン」(1998年)の夜間ライトアップ等が人気を集め、名古屋の名所の1つとなっている。

 

 

 

 

 

大阪港

 

 

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大阪港とは、大阪市の西端、淀川の河口に設けられた市営港。

港域は、北は尼崎市との境を流れる中島川河口から、南は堺市との境にある大和川河口までの大阪湾岸の海域と、その間の河川の河口部が含まれる。

大阪市が管理する港湾区域4856haには安治川内港、天保山運河、大正内港木津川運河等の水域があり、その他の管理区域には、商港区、工業港区、マリーナ港区などの臨港地区1826haの陸域が含まれる。

2015年(平成27年)の入港船舶は2万2583隻(1億0370万t)で、外航5242隻(7088万t)と内航1万7341隻(3282万t)になる。

取扱貨物は外貿3465万t(うちコンテナ貨物3018万t)と内貿4531万t(うちフェリー貨物2923万t)を数え、輸移入貨物5023万tに対し輸移出貨物2973万tと、内国交易港、工業港としての性格が強いと言える。

昔の航路標識「みおつくし」を市章にする大阪は、港とともに発達してきた。

1868年(慶応4年)7月15日、安治川河岸に川口運上所が開かれ、開港したが、河床が浅く、外国貿易船の出入が困難であった為、市民による築港運動が起こった。

オランダ人デ・レーケ(1842〜1913年)が設計した第一次修築工事が、1897年(明治30年)10月17日天保山で始められたが、当時の市予算の二十数倍の工費が計上され、1903年明治36年)7月1日、築港大桟橋(現、中央突堤付近)ができた。

第一次世界大戦の好景気と大阪の産業、貿易の発展を背景に、1929年(昭和4年)7月25日に第二次修築工事に取り掛かり、北港、南港の建設も進められた。

1937~1939年には第二次世界大戦前の最盛期を迎え、取扱貨物量日本一を誇った。

しかし、第二次世界大戦の空襲、相次ぐ台風、地盤沈下等により、壊滅的な打撃を受けた。

戦後、大阪経済の復興とともに港勢が上昇し、今日の姿になった。

現在大阪港には、コンテナ埠頭、ライナー埠頭、フェリー埠頭、食品埠頭や、天保山客船ターミナル、南港航空貨物ターミナル等、物、人の流れに即応する施設が整えられている。

また、咲洲(南港)のコスモスクエア地区には、大阪府咲洲庁舎やアジア太平洋トレード・センター(ATC)等がある。

一方、大阪南港魚つり園護岸、野鳥園臨港緑地、大阪北港マリーナをはじめ、天保山ハーバービレッジ海遊館、大阪文化館・天保山、マーメイド広場、大観覧車等)、舞洲スポーツアイランド(野外活動センター(ロッジ舞洲)、新夕陽ヶ丘等)が整備され、ユニバーサルスタジオ・ジャパンの建設とともに、市民に親しまれるベイエリアの再開発が進められてきた。

1997年(平成9年)10月に開通した大阪咲洲トンネルは、これらの施設の利用を便利にした。

 

 

 

 

 

神戸港

 

 

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神戸港とは、神戸市の南部海岸に設けられた市営港。

港域は、西の堺川河口から東の傍示川河口に至る海域と、その間に流入する妙法寺川、新湊川高橋川等の河口及び新川、兵庫両運河の水面を含み、1984年(昭和59年)には泊地総面積5553万㎡になった。

主な港湾施設は、大型船係船岸の公共埠頭では、須磨港、兵庫突堤(第1~第3)、中突堤、新港突堤(第1~第8)、ポートアイランド(西、北、中、南埠頭)、摩耶埠頭(第1~第4)、灘埠頭、六甲アイランド(物資別バース、内貿バース、フェリー埠頭)、東神戸フェリー埠頭(第1~第4)、神戸深江フェリー埠頭、東部内貿埠頭等わ総延長2万8564m。

私設埠頭では、西部第1工区、灘埠頭、東部第1~第4工区、阪九フェリー埠頭、川崎重工業岸壁、三菱重工業岸壁等、8979m。

小型船係船岸は3万1721m。

また、市営上屋総棟数90や営業倉庫、陸上交通機関、厚生施設、事務所、商店等の諸設備が整い、日本有数の港湾となっている。

港の歴史は古く、奈良時代に遡るが、近代的な開発は1867年(慶応3年)12月の開港からで、漸次整備された。

明治末から大正にかけての修築工事により、本格的な拡張工事が行われ、新港第1~第6突堤、中突堤、兵庫第1・第2突堤、物揚場、係留岸壁、上屋、貯木場など貿易港としての施設が整った。

第二次世界大戦によって大きな打撃を受けたが、1950年(昭和25年)には民間貿易が再開され、翌年から第7突堤、東部第1工区、西部第1工区の造成等が順次計画、着工された。

1955年以降の我が国経済の飛躍的発展によって活況を呈し、兵庫第3、摩耶埠頭等が建設された。

更に1965年には海上コンテナ輸送が始まり、1967年には摩耶埠頭に日本最初のコンテナバースが竣工した。

また、コンテナ専用埠頭とともに住宅、病院、ホテル等の総合的都市機能をも備えた人工島ポートアイランド(1981年完成)の他、六甲アイランドの造成も行われた。

また、2006年(平成18年)には、ポートアイランド沖に神戸空港が開港、連絡橋の神戸スカイブリッジが開通し、ポートライナーが空港まで延長された。

このように、急速に進展する時代に対応する国際港湾を目指し、絶えず開発が進められてきた。

1983年の入港船舶は9万2882隻、取扱貨物は1億4804万tで、外国貿易が30%を占めていた。

2004年の入港船舶は3万9266隻、取扱貨物は8566万1000tで、外国貿易が50%を占めた。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本を代表する都市の港ですね。

東京と横浜、大阪と神戸は近いながら、大きい規模の港が存在するのですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!