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宋の四大家って誰?

 

 

 

こんにちは

 

 

今日は、宋の四大家について紹介したいと思います!

 

宋の四大家に選ばれたのは、

蘇軾(そしょく)

黄庭堅(こうていけん)

米芾(べいふつ)

蔡襄(さいじょう)

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

蘇軾

 

 

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蘇軾とは、中国、北宋の文学者、書家、政治家。

眉州眉山四川省)の人。

字、子瞻。

号、東坡。

嘉祐2年(1057年)、進士に及第。

欧陽修に認められ、英宗の信任を得た。

しかし、間もなく王安石の新法に反対した為、地方官に転出。

その後も政争の渦に巻き込まれ、また直言を憚らぬ性格もあって、屡々左遷され、生涯の多くを地方長官で過ごして終わった。

父の蘇洵、弟の蘇轍と共に「三蘇」と称される。

儒道仏に通じ、詩文書画の凡ゆる分野で天才的な業績を残し、宋代を代表する文豪である。

黄庭堅、秦観、陳師道、張耒らはその弟子(蘇門四学士)。

作品『赤壁賦』は良く知られる。

書では真跡を伝える『黄州寒食詩巻』が残る。

詩文集『東坡七集』。

 

 

 

 

 

黄庭堅

 

 

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黄庭堅とは、中国、北宋の詩人、書家。

洪州分寧(江西省修水県)の人。

字、魯直。

号、山谷、涪翁。

治平4年(1067年)、進士に及第、国子監教授、江西、山東の地方官を努め、元豊8年(1085年)、秘書省に入って『神宗実録』の編纂にあたったが、紹聖1年(1094年)、新法党に中傷され、以後地方を転々として最後は宜州(広西省)で没した。

蘇軾の門下として秦観らと「蘇門四学士」、また、蘇軾と並んで「蘇黄」と称される。

杜甫に傾倒しつつ、時として禅語を駆使して意識的に技巧を凝らし、難解な句も少なくない。

門下ではあったが蘇軾からは友人として遇され、王安石を加えた3人で、北宋後期を代表する文人とされるが、江西詩派の祖としての後世への影響が寧ろ最も大きく、日本でも五山の僧に愛好された。

書家としても「宋代四大家」の1人に数えられる。

詩集『山谷詩内集・外集・別集』。

真跡に『黄州寒食詩巻』の跋、『王史二墓誌藁』等。

 

 

 

 

 

米芾

 

 

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米芾とは、中国、北宋の書家、画家。

襄陽(湖北省)の人。

初め名を黻と書き,41歳以後、芾と改めた。

字は元章、号は南宮、海岳外史等。

徽宗に仕え、官は礼部員外郎となったが、書画の鑑識に優れ、書画学博士を賜わった。

書斎を宝晋斎と号し、晋代の文人を崇拝して晋人の書画を収蔵した。

また、奇行が多く米顛と称された。

蘇軾、黄庭堅らと交わり、当時の代表的文人であった。

絵は董源を学び、「米法山水」と呼ばれる特徴ある画風を創始し、書は蔡襄、蘇軾、黄庭堅と共に宋の四大家と言われた。

著書に『宝晋英光集』『書史』『画史』『海岳名言』等がある。

書跡の主要作品は『草書九帖』『行書三帖』等。

 

 

 

 

 

蔡襄

 

 

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蔡襄とは、中国、北宋の政治家、学者、書家。

仙游(福建省)の人。

字は君謨。

諡は忠恵。

天聖8年(1030年)に進士、累進して翰林学士、三司使となる。

書家としても知られ、王羲之流の書風と神宗以後に盛行した顔真卿流の書風を兼ね備えた書体で、蘇軾、黄庭堅、米芾と並んで宋の四大家として知られる。

著作に『茶録』『茘枝譜』『蔡忠恵公集』等、また書道博物館蔵『謝賜御書詩表真跡』等の遺作もある。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

宋にも有名な書家がいるのですね。

逆に言ってしまえば、中国の有名な書家の影響を受けて、日本にも有名な書家が生まれたのかもしれないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!