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芝蘭堂四天王って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、芝蘭堂四天王について紹介したいと思います!

芝蘭堂四天王とは、大槻玄沢の弟子である4人のことです。

 

芝蘭堂四天王に選ばれたのは、

宇田川玄真(うだがわげんしん)

橋本宗吉(はしもとそうきち)

山村才助

稲村三伯(いなむらさんぱく)

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

宇田川玄真

 

 

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宇田川玄真とは、江戸後期の蘭方医(らんぽうい)。

伊勢(いせ)の人。

本姓は安岡、名は玄真、榛斎は号。

初め漢方医を志して江戸に出たが、宇田川玄随に指摘されて玄随の門に入り、前野良沢(りょうたく)、大槻玄沢(おおつきげんたく)にも師事。

その才を見込まれ杉田玄白(げんぱく)の娘婿になったが、のちに離縁。

玄随没後、稲村三伯(さんぱく)の勧めで宇田川家を継ぎ、津山藩医となった。

1805年(文化2)『和蘭内景医範提綱』3巻、1808年『内象銅版図』を出版、榛斎の名を確立。

前書では静血脈、乳糜(にゅうび)、腸間膜、膵腺(すいせん)などの新用語を創案、平易な書き下し文のためもあり明治初期まで利用された。

1813年蘭書和解掛(わげがかり)となり、以降17年間『厚生新編』の訳に従事。

また薬物学書の翻訳に努め、『和蘭薬鏡(おらんだやくきょう)』3巻(1820)、『遠西医方名物考(えんせいいほうめいぶつこう)』36巻(1822)、『同 補遺』9巻(1834)を刊行、約800種の薬物名をあげた。

門下は数百名を数えたが、常に本に就き変に応じて百病の因を知り治療に努めるように説いた。

主な門人に坪井信道(しんどう)、飯沼慾斎(よくさい)、藤井方亭(ほうてい)(1778〜1845)、佐藤信淵(のぶひろ)、緒方洪庵(こうあん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、青木周弼(しゅうひつ)、戸塚静海らがいた。

1832年天保3)致仕、深川に隠居。

天保(てんぽう)5年12月4日没。

東京浅草の誓願寺に葬られ、のちに多磨霊園、更に津山市西寺町泰安寺に改葬された。

嗣子(しし)がなく、大垣藩医江沢養樹(ようじゅ)(1774〜1838)の子榕菴(ようあん)を養子とした。

 

 

 

 

 

橋本宗吉

 

 

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橋本宗吉とは、蘭学(らんがく)者。

幼名を直政、後に鄭(てい)と改め、宗吉は通称で、字(あざな)を伯敏、伯軒、絲漢(しかん)堂、曇斎(どんさい)等と号した。

幼少の頃阿波(あわ)(徳島県)から大坂に移住し、傘の紋かきの仕事に従事していたが、エレキテル等の奇器にも非常な興味を持っていた。

間重富(はざましげとみ)と小石元俊(こいしげんしゅん)に才能を見出され、その援助で28歳の頃江戸に出て、大槻玄沢(おおつきげんたく)の蘭学塾「芝蘭(しらん)堂」で学んだ。

帰坂後は、間や小石のために医学・天文・地理書などの翻訳をした。

初めは北堀江(現、大阪市西区)に住んでいたが、安堂寺町(現、中央区)に移り、文政(ぶんせい)(1818~1830)の初め頃には車町(現、南区塩町)に住み、塾を開いて絲漢堂と称し、蘭学を教え、一方、医師として医業にも携わった。

1827年(文政10)切支丹婆(キリシタンばばあ)事件が起こり、弟子の藤田顕蔵(ふじたけんぞう)(1770/1781〜1829)がこれに関連して捕らえられたため、宗吉は一時、芸州竹原(広島県竹原市)に逃れたと言われる。

この頃から次第に不遇となり、天保(てんぽう)7年5月1日74歳で没。

墓は竹原市上本町の念仏寺にある。

大坂蘭学の開祖と言われ、弟子に伏屋素狄(ふせやそてき)、大矢尚斎(おおやしょうさい)(1765〜1826)、各務文献(かがみぶんけん)(1755〜1819)、藤田顕蔵、斎藤方策(さいとうほうさく)(1771〜1849)、中天游(なかてんゆう)等がいる。

著書や訳書も多い。

1796年(寛政8)『喎蘭(オランダ)新訳地球全図』を作り、『蘭科内外三法方典』(1805刊)を翻訳、1819年(文政2)には『西洋医事集成宝函』(巻1~6は1819~1823刊、以下30巻まで未刊)を編んでいる。

オランダのボイスVoyceの本などを基に『エレキテル訳説』を書き、更に『阿蘭陀(オランダ)始制エレキテル究理原』(1811)を著している。

『エレキテル究理原』は出版はされなかったが、日本で初めてのエレキテル実験書として著名である。

 

 

 

 

 

山村才助

 

 

山村才助とは、江戸中期の世界地理学者。

名は昌永、字(あざな)は子明、夢遊道人と号した。

土浦藩士の子として江戸藩邸に生まれる。

大槻玄沢(おおつきげんたく)に蘭学(らんがく)を学び、新井白石(あらいはくせき)著『采覧異言(さいらんいげん)』の誤りを多数の内外参考書によって訂正した上で、オランダ語地理書から訳出して大幅に増補し、1802年(享和2)『訂正増訳采覧異言』として幕府に献じた。

この他幕命による『魯西亜(ろしあ)国志』をはじめ多数の海外地誌・紀行・史書の訳述がある。

幕府要職者や手写を通じて識者の海外知識源となり、思想的に開明・守旧の別なく賞賛された。

没後公刊されたのは、内容が一般受けする『西洋雑記』と剽窃(ひょうせつ)本『海外人物輯(しゅう)』『改正海外諸島図説』に留まるのは惜しい。

 

 

 

 

 

稲村三伯

 

 

稲村三伯とは、江戸後期の蘭学者(らんがくしゃ)。

日本最初の蘭和辞典の編纂(へんさん)者。

名は箭(せん)、号は白羽(はくう)。

三伯は通称。

鳥取藩医

脱藩して江戸に出て大槻玄沢(おおつきげんたく)について蘭学を学んだ。

当時、蘭和辞典が無いのを遺憾として辞典編纂を志し、ハルマFrançois Halma(1653〜1722)の蘭仏辞典により、オランダ通詞(つうじ)出身で白河藩松平定信(まつだいらさだのぶ)に仕える石井恒右衛門(石井庄助とも。旧名、馬田清吉(ばたせいきち)。1743〜?)の翻訳、協力を得て、『波留麻和解(ハルマわげ)』を編纂、成就した。

1796年(寛政8)8万余語の原語を木活字で30部印刷し、訳語を書き入れた。

後一時、下総(しもうさ)国(千葉県)海上郡(現、旭(あさひ)市)に隠棲(いんせい)、海上随鴎(うながみずいおう)と称したが、晩年京都に出て蘭学を教授した。

門下の藤林普山(ふじばやしふざん)(1781〜1836)は、『波留麻和解』が大冊で少部数である不便を軽減すべく、簡明な『訳鍵(やっけん)』を作成した。

『ハルマ和解』は、後オランダ商館長ドゥーフが長崎のオランダ通詞を督励して編纂した蘭和辞典を『長崎ハルマ』というのに対して『江戸ハルマ』とも呼ばれる。

文化8年1月16日没。

京都東山の大恩寺に葬られた。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

何人かは、日本史で知った方もいるのではないでしょうか?

橋本宗吉と山村才助は初めて知りました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!