こんにちは!
今日は、日本三大花街(かがい)について紹介したいと思います!
花街とは、遊女屋、芸者屋などの集まっている所のことを指します。
日本三大花街に選ばれたのは、
京都の島原
江戸の吉原
長崎の丸山
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
京都の島原
江戸時代、それまで六条にあった遊里が島原に移り、以後大規模な遊郭として発展。
往時には、揚屋、茶屋、置屋が軒を連ねていたが、安政1 (1854) 年の大火で揚屋町の一部を残すだけとなった。
重要文化財の角屋 (すみや) を中心に、観光地、歓楽地となっているが、かつてのにぎわいはない。
※揚屋とは、遊郭で太夫など比較的上級の遊女を置屋 (遊女をかかえ、養っている家) から招いて遊興させる店のこと。
江戸では宝暦年間 (18世紀なかば) にすたれた。
文字は同じだが揚屋 (あがりや) は江戸時代法制用語で、大名や旗本の臣、武士、僧侶など身分のある未決囚を入れたところ。
江戸の吉原
江戸の吉原とは、江戸時代以来の東京の遊郭。
元和3 (1617) 年牢 (浪) 人庄司甚右衛門が幕府の許可を得て、江戸市中のすべての遊女屋を日本橋葺屋 (現在の中央区日本橋人形町付近) に集めて傾城 (けいせい) 町をつくった。
ここはヨシの茂る埋立て地であったところから最初「葭原」と称したが、のち縁起のいい「吉原」という字を用いたという。
明暦3 (57) 年の大火で焼け、浅草山谷付近 (現在の台東区千束) に移転。
ここは新吉原といわれた。
以来大坂の新町、京都の島原と並んでにぎわいをみせ、遊里と称する特殊地帯を形成。
大門口から仲町をはさんで、江戸町、揚屋町、角町、京町などが開け、周囲には堀がめぐらされた。
寛延3 (1750) 年揚屋がなくなり引手茶屋に代り、遊女3000を数えたという。
寛政7 (95) 年には肝煎 (きもいり) 名主6人で運営することとなった。
享楽地であると同時に社交場でもあり、音曲、浮世絵、歌舞伎、文学など江戸町人文化の源泉であった。
明治以降も存続したが、1956年売春防止法の成立によって解散、一部が旅館、娯楽施設街となっている。
長崎の丸山
長崎の丸山とは、長崎市街東部の一地区。
1642年遊郭となり、京都島原、江戸新吉原(吉原)と並び称された。
延宝年間轡(くつわ)(遊女屋)103軒、遊女766人、うち太夫127人を数え、貞享〜宝永年間最盛期を迎えた。
遊女は出島への出入りを許され、安政開港後は他の外国人居留地へも出向いた。
頼山陽、向井去来、蜀山人らの文人、坂本竜馬、高杉晋作らも訪れた。
ドゥーフの愛人瓜生野(うりゅうの)、シーボルトの愛人其扇(楠本タキ)は最も名高い引田(ひけた)屋の名妓であった。
※ドゥーフとは、江戸末期に来日したオランダ人。
道富、ズーフとも。
1799年長崎に着き、1803年出島オランダ商館長となる。
1817年まで在任し、この間F.ハルマの蘭仏辞書に準拠して蘭和辞書編集を指揮、通詞たちを督励して1816年一部脱稿、完成はドゥーフ離日後の1833年。
この辞書は〈道訳ハルマ〉または〈長崎ハルマ〉とよばれ、当時最大・最良の蘭和辞書として多くの蘭学者が利用・転写した。
なお同じF.ハルマの辞書から稲村三伯が作成した辞書《ハルマ和解》は〈江戸ハルマ〉とよばれた。
如何でしたか?
時代劇が好きな方は、吉原は聞いたことがあるのではないでしょうか?
私も吉原は知っていましたが、島原と丸山は初めて知り、とても勉強になりました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!