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松門四天王って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、松門四天王について紹介したいと思います!

松門四天王とは、吉田松陰の弟子である4人のことです。

 

松門四天王に選ばれたのは、

久坂玄瑞

高杉晋作

吉田稔麿(よしだとしまろ)

入江九一(いりえくいち)

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

久坂玄瑞

 

 

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久坂玄瑞とは、幕末の長州(萩)藩士尊攘派の志士。

藩医久坂良迪の次男。

兄玄機、父良迪の死に遭い、安政1(1854)年家督相続。

同3年九州を遊学、月性、宮部鼎蔵から勧められ、5月吉田松陰の門下に入る。

翌年松陰の妹文子と結婚。

高杉晋作と並び松下村塾の双璧であった。

翌5年学業修業のため江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)に蘭学を学び翌年2月帰藩、5月江戸へ護送される松陰を送る。

10月松陰が処刑された後、松下村塾生の結束を図る。

翌万延1(1860)年江戸に出て蕃書調所の堀達之助の塾に入り、8月高杉らと共に小塚原の刑場に松陰の霊を祭った。

薩摩、水戸、土佐の志士と交流を深め、次いで藩政府に働きかけ和宮降嫁と長井雅楽公武合体運動の阻止を図るが失敗、命ぜられて文久1(1861)年10月帰藩。

翌2年3月兵庫警衛の藩兵に加わり上京、攘夷の挙兵計画を進めるが、薩摩の同志が島津久光に弾圧されて中止。

以来、周布政之助、前田孫右衛門ら藩庁首脳部に接近、藩論を尊王攘夷に転換させることに尽力し成功。

この時に呈出した「回瀾条議」「解腕痴言」は、長州藩尊王攘夷運動の方針を定めた。

次いで江戸へ、12月高杉晋作らと共に御殿山に新築中の英公使館を焼き打ちにする。

翌3年上洛、尊攘運動を指導、士格を上げられて大組となる。

次いで下関に赴き、同5月アメリカ船砲撃を指揮、再び上洛して大和行幸を計画したが8月18日の政変により挫折。

9月政務役に任命され藩政の要路に立ち、京と山口の間を往復。

折から藩内には武力上洛論と割拠論との対立があり、前者に圧されるまま元治1(1864)年6月出動の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。

武力入洛には慎重論を唱えたが、来島又兵衛真木保臣(和泉)らの強硬論に屈し出撃、禁門の変に敗れ鷹司邸に自刃した。

25歳。

 

 

 

 

 

高杉晋作

 

 

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高杉晋作とは、幕末の長州(萩)藩士

父は小忠太。

安政4(1857)年藩校明倫館に入学。

次いで吉田松陰松下村塾に入り久坂玄瑞と共に双璧と称せられる。

翌年7月江戸に赴き昌平黌に入学。

獄中の松陰に金品を送る。

文久1(1861)年世子毛利定広の小姓役、翌年5月藩命により幕府船千歳丸に乗船し上海へ渡航、植民地の実情を観察し帰国。

同年11月久坂らと品川御殿山に新築中の英国公使館を焼き打ちにする。

文久3年1月松陰の遺骨を小塚原から回収、武蔵国荏原郡若林村に改葬。

3月上洛。

尊攘運動の興奮をいとい10年間の暇を乞う。

「西へ行く人を慕ふて東行く 心の底ぞ神や知るらん」と、僧形となり東行と号して萩に隠棲。

時に長州藩は外国船砲撃を断行し、報復攻撃にあって敗北。

直後の6月藩命により下関防御の任に当たり奇兵隊を結成、自ら総督となる。

時に25歳。

奇兵隊の「奇」は正規軍の「正」に対する「奇」で、庶民も入隊できる有志隊であった。

8月18日の政変で京を追われた後、長州藩内に高まる武力上洛論に反対、翌元治1(1864)年1月脱藩し上京、帰国して獄に入れられる。

出獄後の同年8月、四国艦隊による下関砲撃の善後処理を命じられ講和条約を締結。

第1次長州征討の進行に伴い佐幕派の藩政府が誕生、危機を察して九州に脱走し野村望東の平尾山荘に潜伏。

下関に帰り、同年12月に挙兵。

死を覚悟し「故奇兵隊開闢総督高杉晋作、則ち西海一狂生東行墓」の墓誌を用意した。

佐幕派藩政府を相手に勝利を収めた後イギリス留学を希望。

次いで脱藩し讃岐の日柳燕石の元に身を寄せる。

帰藩後、用所役として藩政指導を担当。

慶応2(1866)年6月海軍総督、幕府との開戦直後、小倉方面の戦闘を指揮した。

同年10月、肺結核を重くして退職、翌年4月下関に病没した。

享年29歳。

 

 

 

 

 

吉田稔麿

 

 

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吉田稔麿とは、幕末の長州(萩)藩の志士。

名は秀実、字は無逸。

稔麿は通称で栄太郎とも称す。

長州藩士雇吉田清内の子として萩に生まれる。

安政3(1856)年、吉田松陰に師事し、高杉晋作久坂玄瑞入江九一と共に松門四天王と称された。

無逸の名は、王道から逸れて放逸に走ることの無いようにと、松陰より与えられたもの。

安政5(1858)年、松陰の再獄に当たり免獄に奔走したため、謹慎組預けとなる。

万延1(1860)年脱藩して江戸に行き、幕府旗本妻木田宮の用人となって江戸の情勢を窺った。

文久2(1862)年京都に出て、脱藩の罪を謝し許された。

その後、幅広い交遊を生かして江戸、京都をはじめ諸藩を往来し、『東西不競密話』を著して政治的建策を行った。

同3年、奇兵隊に入隊。

7月士籍に列せられ、被差別部落の人々を兵士に登用するよう建策。

その実施状況は不詳だが、これは後の維新団や一新組へと結実していった。

元治1(1864)年5月、上京して政治工作に当たる。

同年6月5日、池田屋で諸藩の同志と会合中のところを新選組に襲われ、重囲を破って長州藩邸まで帰ったものの傷は重く、門外で自殺。

年は24歳だった。

 

 

 

 

 

入江九一

 

 

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入江九一とは、幕末の長州(萩)藩の尊王攘夷運動の志士。

運動の幹部、激派。

名は弘毅、字は子遠、通称杉蔵、九一。

足軽の家に生まれ、吉田松陰の門下生となり、尊王攘夷の運動に参画した。

安政6(1859)年、松陰が門下生から孤立した後も志を継いで活動し、弟和作と共に藩によって投獄された。

文久3(1863)年、尊王攘夷に転じた藩によって終身士雇に登用された。

同年、高杉晋作らの下関での奇兵隊設立に加わり、元治1(1864)年、京都禁門の変に上京藩士の幹部として活動、鷹司邸内で戦い、飛弾により重傷を負い、切腹した。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

長州藩の話は、大河ドラマ『花燃ゆ』で描かれていましたね。

明治維新で実権を握る長州藩も、幕末では苦しい経験をしていることが分かりますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!