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徳川四天王って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、徳川四天王について紹介したいと思います!

徳川四天王とは、徳川家康の家臣である4人のことです。

 

徳川四天王に選ばれたのは、

酒井忠次

本多忠勝

榊原康政

井伊直政

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

酒井忠次

 

 

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酒井忠次とは、安土桃山時代の武将。

徳川氏の重臣

忠親の子。

幼名は小平次、小五郎。

左衛門督、入道して一智と号した。

家康に仕え、永禄7 (1564) 年今川氏の武将小原鎮実を吉田城に落として吉田城主となる。

姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いに功があり、天正 16 (88) 年致仕した。

 

 

 

 

 

本多忠勝

 

 

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本多忠勝とは、安土桃山時代の武将。

忠高の子。

通称は平八郎。

幼少から徳川家康に仕え、しばしば戦功を立てた。

50回余りの合戦に参加し、特に天正3 (1575) 年の長篠の戦い、同 12年の小牧・長久手の戦いには大功を立てた。

同 16年家康に従って上洛した際、中務大輔に任じられた。

同 18年8月家康が関東に入ると、上総大多喜城1万石を与えられ、慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは岐阜城を陥れ、進んで関ヶ原に戦って功を立てた。

同6年伊勢桑名に 10万石を与えられた。

 

 

 

 

 

榊原康政

 

 

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榊原康政とは、安土桃山時代の武将。

徳川氏の重臣

長政の子。

幼名は亀丸、小平太。

幼少から家康に仕え、姉川の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いの功により、従五位下に叙され、式部大輔に任じられた。

小田原征伐の後、天正 18 (1590) 年、家康の関東移封に伴い、上野国館林 10万石に封じられた。

文禄1 (92) 年以来秀忠に仕え、慶長5 (1600) 年秀忠が信州上田城真田昌幸に阻止され関ヶ原の戦いに間に合わなかった時、康政の陳謝によって許されたという。

 

 

 

 

 

井伊直政

 

 

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井伊直政とは、安土桃山時代の武将。

直親の子。

幼名は万千代、後兵部少輔と称した。

今川氏真に仕えていた父が謀反容疑で殺されると、逃れて親族に養われた。

天正3 (1575) 年徳川家康に仕えて父祖の地井伊谷を領した。

同 10年武田氏が滅んだ後、甲斐経営の功が認められ武田氏の遺領を与えられた。

その後その旗幟、器杖をみな赤色に統一したので、世人はこれを赤備 (あかぞなえ) と呼んで武名を讃えた。

同 12年小牧・長久手の戦いに従軍。

同 18年家康の関東入国の際、上野箕輪城 12万石を与えられ、さらに慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いの時、功により近江国佐和山 18万石を加封。

翌年従四位下に叙任。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

徳川三傑に酒井忠次が加えられていますね。

個人的には、本多忠勝が好きです。

戦において、1度も傷を負ったことが無いというのは凄まじいことだと思いました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!