こんにちは!
今日は、出島の三学者について紹介したいと思います!
出島の三学者とは、江戸時代、長崎の出島に来日して博物学的研究を行った3人の学者です。
出島の三学者に選ばれたのは、
エンゲルベルト・ケンペル
カール・ツンベルク
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
エンゲルベルト・ケンペル
エンゲルベルト・ケンペルとは、ドイツの医者、博物学者。
東洋研究を志し、オランダ東インド会社の船医となって 1689年、バタビアに渡り、翌年、オランダ商館長となったアウトホールンに随行して長崎に赴任、元禄5年(1692年)10月まで2年余り日本に滞在した。
その間、1691年と1692年の2回、商館長の江戸参府に従い、日本の歴史、社会、政治、宗教、動植物等を総合的に観察記録し、また自ら絵筆をとりスケッチも多く行った。
1693年、アムステルダムに帰着、故郷のレムゴーに戻り、領主アドルフ伯の侍医となって、資料の整理、著述に従った。
1712年に所謂『廻国奇観』をラテン語で出版し、好評を博したが、それから4年後、66歳の生涯を閉じた。
彼は生前に日本の歴史に関する大著を完成していたが出版されず、1726年、ロンドンで英訳され、"The History of Japan"として出版された。
その後、フランス、オランダ、ドイツ等でも出版された。
当初『廻国奇観』に載り、ドイツ語版『日本志(日本誌)』に収録された『鎖国論』は、早くから日本でも、志筑忠雄の邦訳『異人恐怖伝』によって思想界に影響を及ぼし、邦訳された『江戸参府紀行』(『異国叢書』所収)にも収められている。
カール・ツンベルク
カール・ツンベルクとは、スウェーデンの植物学者、医師。
ウプサラ大学で医学と植物学を学び、オランダ東インド会社員外船医となる。
1775年(安永4年)、喜望峰を経て長崎に来着し、日本に1年間滞在した。
その間、商館長の江戸参府に同行して桂川甫周、中川淳庵ら蘭学者と交わった。
帰国後、師の C.リンネの跡を継いでウプサラ大学植物学教授となった。
また、海外から持帰った植物標本を整理し、"Flora Japonica" (日本植物誌、1784年)、"Resa uti Europa,Africa,Asia" (ヨーロッパ、アフリカ、アジア旅行記、4冊、1788~1793年)等を著わした。
後者の一部の邦訳が「ツンベルク日本紀行」(『異国叢書』所収)である。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとは、ドイツの医者。
江戸時代後期の文政6年(1823年)、長崎オランダ商館の医師として来日、翌年、長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き、伊東玄朴、高野長英、黒川良安ら数十名の門人に西洋医学及び一般科学を教授した。
商館長の江戸参府に随行(1826年)、日本に関する研究資料をも集めた。
帰国に際し、所謂シーボルト事件を起し処罰され、文政 12年(1829年)に日本から追放された。
安政6年(1859年)、オランダ商事会社員として再来日、幕府の外交にも参与し、文久2年(1862年)、帰国。
『ニッポン』(1832~1854年)、『日本植物誌』(1835~1870年)、『日本動物誌』(1833~1850年)等日本関係の論著が多い。
如何でしたか?
鎖国をしていたものの、海外の学者が何人か来ていたようですね。
この方々の教えが今の日本にも多く活かされていると思いました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!