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五社協定って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、五社協定について紹介したいと思います!

五社協定とは、日本の大手映画会社5社が1953年9月10日に調印した専属監督・俳優らに関する協定です。

 

五社協定の5社に選ばれたのは、

松竹株式会社

東宝株式会社

大映株式会社

東宝株式会社

東映株式会社

の5つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

松竹株式会社

 

 

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松竹株式会社とは、演劇、映画、演芸の製作、配給、興行会社。

双子の兄弟、白井松次郎大谷竹次郎が興行の仕事を始めた1895年(明治28年)を創業とし、1902年(明治35年)、2人の名を合わせた松竹合名社を設立。

京都の南座、大阪の文楽座、東京の歌舞伎座等、東西の主だった劇場と、歌舞伎、新派の俳優を傘下に収めた。

1920年大正9年)に松竹キネマ合名社を設立して映画界に参入。

ハリウッドを手本に、小谷ヘンリーらのスタッフをアメリカから招聘し、小山内薫が校長を務める俳優学校を開設、蒲田に撮影所を建設した。

歌舞伎以来の女形を廃し、第1作『島の女』(1920年)の川田芳子や、『虞美人草』(1921年)の栗島すみ子らの女優を起用して人気を集めた。

1924年、城戸四郎が所長になると、社会の現状を反映しながら笑いと涙、明朗さと詩情を盛り込んだ蒲田調と呼ばれる路線が形成され、牛原虚彦の『陸の王者』(1928年)、小津安二郎の『生れてはみたけれど』(1932年)、五所平之助の『伊豆の踊子』(1933年)等の作品が生まれた。

また、五所の『マダムと女房』(1931年)の成功が、トーキー時代の幕開けを告げ、京都の下加茂撮影所(1923年開設)では、衣笠貞之助監督と林長二郎長谷川一夫)のコンビによる時代劇がヒットした。

1936年(昭和11年)に撮影所を蒲田から大船に移した後も、喜劇やホームドラマ、『愛染かつら』(1938~1939年)等のメロドラマを主流にした映画作りが大船調として受け継がれていった。

演劇の分野では、歌舞伎、新派以外にも幅を広げ、1928年(昭和3年)に設立された松竹楽劇部が、松竹少女歌劇を経て1933年に松竹歌劇団(SKD)となり、華麗なレビューを展開。

1928年に旗揚げした劇団、松竹家庭劇が、1948年(昭和23年)には松竹新喜劇となり、渋谷天外藤山寛美の活躍により人気を博した。

第二次世界大戦後の大船撮影所では、小津安二郎渋谷実吉村公三郎木下恵介大庭秀雄中村登野村芳太郎らの監督が活躍した。

木下の『カルメン故郷に帰る』(1951年)がカラー映画に先鞭をつけ、大庭の『君の名は』(1953年)、木下の『二十四の瞳』(1954年)等のヒット作が生まれた。

1950年代の終わりから、大島渚篠田正浩吉田喜重らの新人監督たちが、それまでのセオリーを破る革新的な作品を撮り、松竹ヌーべル・バーグとして注目を集めた。

1969年に登場した山田洋次監督の『男はつらいよ』は1995年(平成7年)までに48本が製作され、松竹を代表する長寿シリーズとなった。

1995年に大船撮影所内にオープンしたテーマパーク「鎌倉シネマワールド」が業績不振に陥る等、1990年代後半に経営の危機を迎えるが、2000年(平成12年)に大船撮影所を閉鎖するといった思いきった改革を行って切り抜けた。

旧作映画のデジタル技術によるリニューアルや、シネマ歌舞伎の製作、歌舞伎座の改築等、新旧の要素を組み合わせながら、東宝と並ぶ、演劇・映画界の一方の雄として経営を続けている。

資本金330億円(2012年)、売上高756億円(2012年。連結ベース)。

 

 

 

 

 

東宝株式会社

 

 

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東宝株式会社とは、演劇、映画の製作、配給、興行会社。

創業は、実業家の小林一三が株式会社東京宝塚劇場を設立した1932年(昭和7年)。

1934年に東京宝塚劇場が開場し、同年から1937年にかけて、日比谷映画劇場や有楽座を建設し、日本劇場、帝国劇場を合併する等、日比谷、有楽町界隈は、東宝傘下の劇場街となった。

映画界へも参入し、1937年には、トーキー映画を製作していたPCL映画製作所やJOスタジオと、東宝映画配給株式会社、写真化学研究所が合併して東宝映画株式会社が設立された。

監督では、島津保次郎衣笠貞之助熊谷久虎山本嘉次郎らを、俳優では、大河内伝次郎長谷川一夫入江たか子山田五十鈴らを擁し、森岩雄を中心とするプロデューサー・システムの下、効率的な製作を進め、阿部豊監督の『燃ゆる大空』(1940年)や山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)等の国策に沿った映画がヒットし、榎本健一古川緑波らの喜劇も人気を集めた。

1943年には、演劇の東京宝塚劇場と映画の東宝映画が合併して東宝株式会社となった。

第二次世界大戦後は、1946年(昭和21年)から1950年にかけて4次に渡る争議が起き、長谷川一夫大河内伝次郎ら「十人の旗の会」のスターが東宝を去り新東宝が設立され等して、製作本数が激減するという事態を招いた。

1950年代に入ると復調を見せ始め、黒澤明成瀬巳喜男稲垣浩豊田四郎らの秀作が生まれ、森繁久彌らの「社長」シリーズ(1956~1970年)や「駅前」シリーズ(1958~1969年)、加山雄三らの「若大将」シリーズ(1961~1971年)等がヒットし、『ゴジラ』(1954年)をはじめとする特撮映画も東宝を代表するジャンルとなった。

演劇の分野では、東宝歌舞伎東宝ミュージカル、東宝現代劇の3本柱で固定ファンを獲得した。

1970年代以降の映画産業斜陽化の時代も、製作部門の分離や洋画配給への参入等で乗り切り、現在も、スタジオ・ジブリ作品やテレビ会社製作の大作を配給して、業界のトップの座を守り続けている。

資本金104億円(2012年)、売上高1814億円(2012年。連結ベース)。

 

 

 

 

 

大映株式会社

 

 

大映株式会社とは、映画会社。

1942年(昭和17年)、第二次世界大戦中の映画会社の統合により、日活の製作部門、新興キネマ大都映画の3社が合併し、大日本映画製作株式会社(略称・大映)が設立された。

所属する時代劇四大スター、阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎市川右太衛門が共演する『維新の曲』(牛原虚彦監督、1942年)が第1作となった。

翌1943年、菊池寛が社長に就任。

第二次世界大戦後は社名を大映株式会社と改めた。

直営館網が整備されていなかったことや、GHQ連合国最高司令官総司令部)が上映禁止指定した時代劇作品が旧作に多かったこと等により、厳しい経営を余儀なくされた。

1947年(昭和22年)に永田雅一が社長になり、強いリーダーシップで社を牽引した。

片岡千恵蔵の「多羅尾伴内」シリーズ(1946~1960年)や三益愛子主演の「母もの」等のヒットにより経営基盤を固め、黒澤明監督の『羅生門』(1950年)がベネチア国際映画祭でグランプリに相当するサン・マルコ金獅子賞を獲得。

その後も、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)と『山椒大夫』(1954年)(ともにベネチア国際映画祭銀獅子賞)、衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953年)(カンヌ国際映画祭グランプリ)等が国際映画祭で連続受賞し、日本映画の芸術性を世界に知らしめた。

時代劇では、森一生三隅研次らの監督が演出に冴えを見せ、「座頭市」シリーズ(1962~1971年)、「眠狂四郎」シリーズ(1963~1969年)等の人気シリーズが生まれ、勝新太郎市川雷蔵がファンを魅了した。

現代劇では、吉村公三郎市川崑増村保造らの監督が活躍し、京マチ子若尾文子山本富士子ら女優たちの魅力を引き出した。

テレビの普及等により映画界が斜陽化する中、大映の業績も悪化し1971年に倒産。

労働組合の再建運動により、1974年、徳間康快社長の下で大映映画株式会社として再建され、株式会社徳間書店の傘下となった。

平成「ガメラ」シリーズ(1995~2006年)や『Shall we ダンス?』(1996年)等をヒットさせるが、2002年(平成14年)、徳間書店は映像事業を株式会社角川書店に売却し、角川大映映画が設立される。

その後、日本ヘラルド映画を吸収し、角川ヘラルド映画角川映画と社名を変更し、2011年には、角川書店角川映画が合併、現在は角川書店が映像事業の展開と旧大映作品の管理を行っている。

 

 

 

 

 

東宝株式会社

 

 

東宝株式会社とは、映画会社。

1946年(昭和21)年11月、第二次東宝争議の最中、大河内伝次郎長谷川一夫入江たか子山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子高峰秀子、山根寿子、花井蘭子による「十人の旗の会」のスターと、斎藤寅次郎らの監督やカメラマン等400名余りのスタッフが組合を脱退した。

彼らの映画製作の場として、また、ストライキの為に製作機能が低下した東宝の配給網を維持する為、1947年3月に、資本金をはじめ、スタジオや機材も東宝が提供する形で、株式会社新東宝映画製作所が設立された。

翌1948年には、元東宝の佐生正三郎を社長に迎え、株式会社新東宝となった。

東宝が製作した作品の配給を巡って、東宝と新東宝との間で訴訟が起きたりもしたが、1950年3月には東宝から独立した。

1950年代半ばにかけて、『小原庄助さん』(清水宏監督、1949年)、『おかあさん』(成瀬巳喜男監督、1952年)、『大阪の宿』(五所平之助監督、1954年)、『たそがれ酒場』(内田吐夢監督、1955年)等の秀作が送り出された。

1955年、大蔵貢が社長に就任してからは、戦記もの、怪談、エロ・グロもの等、低予算の娯楽路線に徹し、中でも、嵐寛寿郎明治天皇に扮した渡辺邦男監督の『明治天皇と日露大戦争』(1957年)は大ヒットした。

中川信夫監督の『東海道四谷怪談』(1959年)等のように、長くカルト的人気を保つ作品も生まれた。

大蔵社長の時代には、天知茂高島忠夫宇津井健、久保菜穂子、三原葉子、三ツ矢歌子、前田通子、高倉みゆきらが活躍した。

1960年前後から経営が悪化し、1960年に大蔵社長が辞任し、1961年に新東宝は倒産した。

製作機能と作品の著作権国際放映株式会社が受け継いだ。

 

 

 

 

 

東映株式会社

 

 

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東映株式会社とは、映画の製作、配給、興行会社。

他にテレビドラマの製作やテーマパークの運営等も手掛ける。

正式名称は東映株式会社。

1951年(昭和26年)に、東横映画、大泉映画、東京映画配給の3社が合併して設立された。

東京急行電鉄(現、東急)専務から初代社長に就任した大川博は、採算を重視した映画製作を進め、1953年には『ひめゆりの塔』(今井正監督)の大ヒットによって経営の基盤を固めた。

片岡千恵蔵市川右太衛門月形龍之介、大友柳太朗、中村錦之助萬屋錦之介)、東千代之介大川橋蔵ら、新旧の時代劇スターを擁して時代劇の量産を図り、市川右太衛門の「旗本退屈男」シリーズ(1950~1963年)、月形龍之介の「水戸黄門」シリーズ(1954~1961年)等が人気を呼び、昭和30年代には業界トップの座を守り続けた。

娯楽作以外では、今井正監督の『米』(1957年)、田坂具隆監督の『五番町夕霧楼』(1963年)、内田吐夢監督の『飢餓海峡』(1964年)等が評価された。

1956年に東映動画株式会社(現、東映アニメーション株式会社)を設立し、日本初の長編カラー・アニメーション『白蛇伝』(1958年)を完成させ、日本のアニメーションの分野をリードしていく。

1957年には、「東映スコープ」の名称で、初の国産ワイドスクリーン作品『鳳城の花嫁』(松田定次監督)を発表、同年、テレビ作品の製作も手掛けるようになる。

『人生劇場 飛車角』(沢島忠監督、1963年)等のヒットにより、東映は娯楽映画の主流を時代劇から任侠映画へと移していった。

「日本侠客伝」シリーズ(1964~1971年)、「網走番外地」シリーズ(1965~1972年)、「昭和残侠伝」シリーズ(1965~1972年)、「緋牡丹博徒」シリーズ(1968~1972年)等の人気シリーズが生まれ、鶴田浩二高倉健、藤(富司)純子らが、このジャンルのスターとして熱烈な支持を得た。

また、『徳川女系図』(石井輝男監督、1968年)等のエロチックな作品も増収に貢献した。

1970年代に入ると、任侠映画も陰りを見せ始め、代わって『現代やくざ 人斬り与太』(深作欣二監督、1972年)や、『仁義なき戦い』五部作(深作欣二監督、1973年~1974年)等が登場し、東映のアクション映画は任侠から実録ものへと路線を変えていく。

1975年には、時代劇のテーマパーク、東映太秦映画村京都市右京区にオープンさせた。

その後、ヒットシリーズでは、「トラック野郎」シリーズ(1975~1979年)や「極道の妻たち」シリーズ(1986~2001年)等を、ヒット作では『鉄道員』(降旗康男監督、1999年)や『男たちの大和 YAMATO』(佐藤純彌監督、2005年)等を送り出し、興行面では東宝と提携して、シネマ・コンプレックスを運営する等、時流に沿った経営を続けている。

資本金117億円(2020年)、売上高1413億7600万円(2020年3月。連結ベース)。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

今でも名を聞く映画会社もあれば、既に無い会社もありますね。

東宝以外に新東宝があったのは初めて知りました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!