こんにちは!
今日は、戦国四君(せんごくしくん)について紹介したいと思います!
戦国四君とは、中国の戦国時代に活躍した4人の人物を総称した呼び名です。
戦国四君に選ばれたのは、
孟嘗君(もうしょうくん)
平原君(へいげんくん)
信陵君(しんりょうくん)
春申君(しゅんしんくん)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
孟嘗君とは、中国の戦国時代末期の四君の1人。
姓は田。
名は文。
父の田嬰は斉の威王の子で、薛(山東省)に封じられ、父の死後、跡を継いだ。
賓客を好遇し、その食客は数千人に及んだという。
秦の昭王はその賢明なことを聞き、王の8年(前299年)、招いて殺そうとしたが、狗盗や鶏の鳴き声の上手な食客の手引で秦から脱出に成功したと言う「鶏鳴狗盗」の故事が有名。
一時、斉のびん王に仕えたが、意見が合わず薛に引退し、後に魏の宰相を務めたこともあったが、最後は自立。
彼の行動には伝説的要素が強い。
平原君
平原君とは、中国、戦国時代末期の趙の公子。
姓名は趙勝、平原君はその号。
恵文王、孝成王の丞相となり、3000人もの食客を養ったという。
孝成王9年(前257年)、秦の攻撃を受け、都の邯鄲が包囲された時、平原君の活躍により、楚の春申君や魏の信陵君等の援助を受け、秦を撃退した。
この時の食客毛遂の話は名高い。
名家の代表者である公孫龍も平原君に好遇されたという。
信陵君
信陵君とは、中国、戦国時代末期の魏の公子で戦国四君の1人。
昭王の子で名は無忌。
秦が趙都邯鄲を攻めた安釐王20年(前257年)に趙の平原君の依頼により、魏軍を率いて独断で秦を攻撃、兄である安釐王の怒りに触れ、長く趙に居た。
後に帰国し秦の侵入を防いだが、秦の反間の為、王に疎まれ、酒食に溺れ、失意のうちに死んだ。
春申君
春申君とは、中国、戦国時代末期の楚の政治家で戦国四君の1人。
姓は黄、名は歇。
楚の考烈王1年(前262年)に宰相となり、25年間内治、外交に活躍し、強敵秦に対抗した。
一時荀子を地方官に任命したこともある。
考烈王の死後、李園に殺された。
如何でしたか?
三国時代は有名ですが、中国の戦国時代は少しマイナーかもしれないですね。
中国の文化は、日本にも大きな影響を及ぼしているので、中国の歴史をより知りたいと思いました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!