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日本四大師って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本四大師について紹介したいと思います!

 

日本四大師に選ばれたのは、

最澄伝教大師

空海弘法大師

円仁(慈覚大師)

円珍(智証大師)

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

最澄

 

 

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最澄とは、日本天台宗の開祖。

三津首百枝 (みつのおびとももえ) の子。

幼名は広野。

12歳で出家、14歳で得度、法名最澄とした。

19歳のとき比叡山に登り、草庵を構え思索の生活に入る。

延暦 21 (802) 年、桓武天皇から入唐の勅命を受け、同 23年入唐、天台山で行満から天台の教えを受け、また禅法、大乗菩薩の戒法、密教を学び同 24年帰国。

密教を伝えるために高雄山寺に灌頂壇を設け、翌年天台宗としての年分度者を許された。

弘仁 10 (819) 年比叡山に大乗戒壇建立を奏上したが、南都六宗の反対で許されず、同 13年寂。

死後7日目に建立の勅許を得た。

貞観8 (866) 年伝教大師諡号を贈られた。

日本最初の大師号である。

主著『守護国界章』 (818) 、『山家学生式』 (818~819) 。

 

 

 

 

 

空海

 

 

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空海とは、真言宗の創設者。

弘法大師といわれる。

姓は佐伯氏、幼名は真魚 (まお) 。

15歳で上洛。

18歳のとき大学寮に入り官吏としての学問を修めたが、仏教に転じて、儒教道教を離れた。

仏教に転じたその思索の過程を記して『聾瞽指帰』 (のち『三教指帰』と称される) を著わした (797) 。

遣唐使とともに入唐 (804) 。

青竜寺の恵果阿闍梨のもとで密教の伝授を受け、諸地をめぐり文献や法具をたずさえ帰朝 (806) 。

その後約1年間筑紫の観世音寺にとどまり、大同4 (809) 年には高雄山寺を本拠に布教を開始し、最澄らに灌頂を授けている (812) 。

弘仁7 (816) 年には高野山を開き金剛峰寺を建立し、同 14年に東寺を天皇より与えられ、以後高野山と東寺を中心とした宗教活動を行ったほか、さまざまな社会福祉事業も手がけた。

また綜芸種智院を創立 (828) 。

高野山にて入寂した。

その思想の特色として、顕教に対する密教を確立した点、即身成仏の思想、十住心の段階を述べて菩提心の展開を明かしたことなどがきわめて重要である。

空海は諸芸にすぐれていたという伝説があり、実際彼の在世中には密教彫刻や仏画、法具類が多数制作され、その一部は東寺や高野山などに伝来する。

しかし空海自身の手になる遺品としては書跡のみである。

三筆の1人として書家としての名声はきわめて高く、顔真卿流の書風が特色で、『風信帖』、神護寺の『灌頂歴名』、仁和寺の『三十帖策子』などの自筆が現存する。

主著『秘蔵宝鑰』『弁顕密二教論』『十住心論』『即身成仏義』。

その著書のすべては『弘法大師全集』 (16巻) に収められている。

 

 

 

 

 

円仁

 

 

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円仁とは、平安時代初期の僧。

延暦寺第3世座主。

天台宗山門派の祖。

俗姓壬生氏。

延暦 21 (802) 年大慈寺広智に入門。

大同3 (808) 年比叡山に登り、最澄に止観を学ぶ。

弘仁7 (816) 年東大寺具足戒を受ける。

承和5 (838) 年入唐、このとき遣唐使藤原常嗣、同行者は円行、常暁らであった。

中国各地で顕密両教を学び、経疏類 802巻などを得て同 14年帰国。

『入唐求法巡礼行記』はその旅行記である。

最澄の業績を発展させ、『顕揚大戒論』の著述、法華懺法の完成、常行三昧堂や法華総持院の建立、金剛頂、蘇悉地両業の制定などを行い、天台宗密教化に影響を与えた。

嘉祥1 (848) 年内供奉。

仁寿4 (854) 年天台座主

死後、法印大和尚位を追贈。

貞観8 (866) 年慈覚大師を追諡。

 

 

 

 

 

円珍

 

 

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円珍とは、平安時代初期の僧。

延暦寺第5世座主。

天台宗寺門派の祖。

俗姓和気氏

母は空海の姪。

15歳で叡山に登り、座主義真に師事。

20歳で官試に及第、菩薩戒を受ける。

以後 12年間籠山修行。

仁寿1 (851) 年内供奉十禅師。

同3年入唐。

以後5年の間中国各地で顕密両教などを学ぶ。

天安2 (858) 年帰国。

441部 1000巻の経疏を伝えた。

叡山山王院に住す。

園城寺を再興し、貞観5 (863) 年同寺に灌頂壇を設ける。

同8年園城寺別当 (長吏) 。

同 10年以後 23年の間天台座主

元慶7 (883) 年法眼和尚位。

寛平2 (890) 年少僧都となる。

円珍以後、第9世長意を除き第 13世尊意にいたる7代の座主は、ことごとく円珍の門下から出た。

没後の延長5 (927) 年智証大師を追諡。

彼の思想的特色は、円仁の理同事別の対法華大日経観をさらに円劣密勝にまで進めた点にある。

著作には『伝教大師略伝』『行歴抄』『山王院在唐記』『法華論記』『授決集』『諸家教相同異略集』などがある。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史で良く出てくる名前ですね。

私自身、円仁と円珍、山門派と寺門派が混同してしまう時がありました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!