こんにちは!
今日は、三人の会について紹介したいと思います!
三人の会に選ばれたのは、
芥川也寸志(あくたがわやすし)
團伊玖磨(だんいくま)
黛敏郎(まゆずみとしろう)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
芥川也寸志とは、作曲家。
小説家である芥川龍之介の三男として生まれる。
兄は俳優の芥川比呂志。
1945年、東京音楽学校作曲科を卒業。
在学中に恩師の伊福部昭に出会い大きな影響を受けた。
1950年に出世作となった『交響管弦楽のための音楽』を発表、日本放送協会NHK主催のNHK放送25周年記念管弦楽懸賞で特選入賞を果たした。
初期の作風は、現代ロシア音楽の影響が色濃く、1953年にはソビエト連邦のドミトリー・ショスタコビッチらを訪問。
1957年、インドのエローラ石窟寺院を訪れ、翌 1958年、発表した『エローラ交響曲』ではアジア的世界を表現した。
オペラ『暗い鏡』(1960年)、『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)、『オルガンとオーケストラのための響き』(1986年)等の作品で新しい世界を提示した。
また、日本作曲家協議会会長、日本音楽著作権協会理事長として音楽家の活動基盤の整備に奔走、新交響楽団等、アマチュアオーケストラの支援活動、NHKの音楽番組「音楽の広場」での司会等、幅広い活動を行った。
團伊玖磨とは、作曲家。
団琢磨の孫。
1942年に東京音楽学校に入学して下総皖一、橋本国彦、細川碧に学ぶ。
1950年、NHK創立25周年記念管弦楽曲募集コンクールで『交響曲イ調』が特賞を受賞、作曲家としてデビュー。
1952年、木下順二の戯曲を元にした初のオペラ『夕鶴』を初演し、毎日音楽賞、伊庭歌劇賞、山田耕筰賞を受賞した。
その後、世界各国で上演され好評を博した。
1953年、芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成、自作作品発表の為の音楽活動を展開。
作品は、美しい抒情性、緻密かつ雄弁で色彩的なオーケストラ語法、壮大な風格といった特徴を持ち、『ひかりごけ』(1972年、芸術選奨文部大臣賞)、『建・TAKERU』(1997年)等、7曲の歌劇、6曲の交響曲、歌曲、室内楽、劇音楽、映画音楽、混声合唱組曲『岬の墓』(1963年、芸術祭賞文部大臣賞)等、幅広い作品を残した。
『パイプのけむり』等の随筆でも知られた。
1966年、日本芸術院賞を受賞。
1973年、日本芸術院会員、1997年、日中文化交流協会会長、1999年、文化功労者。
黛敏郎とは、作曲家。
東京音楽学校(現東京芸術大学)作曲科に学び、橋本国彦、池内友次郎、伊福部昭に師事。
学部の卒業作品『10楽器のためのディベルティメント』(1948年)でデビュー、レコード化されて、1950年、芸術祭賞を受賞した。
翌年、国際現代音楽祭に『スフェノグラム(楔形文字)』(1950年)が入選。
1951年、同研究科修了後、パリ国立音楽院にフランス政府給費留学生として留学(1951~1952年)。
1953年、芥川也寸志、團伊玖磨と「三人の会」を結成、またフランスで影響を受けたミュジック・コンクレートの技法による『X・Y・Z』(1953年)等の作品を発表する。
その後もミュジック・セリエル、トーン・クラスター等、新しい技法を用いて作曲を続けるが、1958年、傾向を一転して日本の伝統に回帰した作風を示し、後にナショナリストとして政治的発言も活発に行うようになった。
代表作は他に『涅槃交響曲』(1957~1958年)、『曼陀羅交響曲』(1960年)、ベルリン・ドイツ・オペラの委嘱作『金閣寺』(三島由紀夫原作、1976年)等。
テレビ番組『題名のない音楽会』の司会を30余年に渡り務めた。
1986年、紫綬褒章受章。
如何でしたか?
芥川龍之介や團琢磨の息子が作曲家だなんて面白いですね。
芥川龍之介は、俳優の息子もいるなんて、やはり芸術一家であることが伺えますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!