こんにちは!
今日は、日本五大流派について紹介したいと思います!
日本五大流派に選ばれたのは、
の5つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
花柳流とは、日本舞踊の流派。
花柳寿輔(じゅすけ)を家元名とし、現家元は4世。
初世は西川流4世扇蔵(せんぞう)門下の西川芳次郎(よしじろう)で、師没後の内紛のため独立し、花柳芳次郎として1849年(嘉永2)に創流した。
花柳寿助を経て、花柳寿輔と名を定める。
幕末から明治前半期にかけて劇場振付けの第一人者として活躍したが、9世市川団十郎と不和となり、劇界から遠ざかって1903年(明治36)に没した。
初世の実子花柳芳三郎(よしさぶろう)が年少のため、養子の初世花柳徳太郎が家元を預かり流儀を支えた。
芳三郎は1918年(大正7)2世家元花柳寿輔を襲名。
新時代の日本舞踊を目指して「花柳舞踊研究会」を組織する一方、古典舞踊研究の「二十四日会」を発足させるなど、充実した歩みを進めた。
歌舞伎(かぶき)座の振付師に起用され、しばらくこの面の活動も続いた。
徳太郎と4世花柳芳次郎(後の芳瞠(ほうどう))は分家として寿輔を助け、芳次郎は関西を固めた。
多彩な人材が輩出し、全国に門弟が広がり、斯界(しかい)最大の流派に発展した。
63年(昭和38)に2世は寿応を名乗り、娘わかばが3世家元を継ぎ、2世の義弟寿楽(じゅらく)と5世芳次郎が後見人として補佐した。
2007年(平成19)3世死去後、5世芳次郎が4世家元を継ぐ。
花柳流から分かれた流派に、若柳(わかやぎ)流、五條(ごじょう)流、猿若流、泉流などがある。
藤間流とは、日本舞踊の流派。
流祖は初世藤間勘兵衛(ふじまかんべえ)(?―1769)であるが、この名跡は現在継承されていない。
藤間勘十郎を継ぐ家系と、藤間勘右衞門(ふじまかんえもん)を継ぐ家系の2つに大別される。
(1)勘十郎家
当家系では、勘十郎を名乗っていた(1798~1819)3世勘兵衛を代数に数えず、彼の養子の勘十郎(名義としては2世。1796―1840)を元祖(初世)とする。
この元祖と6世(名義としては7世。1900―90。90年に2世藤間勘祖となる)が大きな存在。
3世勘兵衛の養子の1人に後の4世中村歌右衛門があり、門弟からは後の4世西川扇蔵(せんぞう)が出た。
6世は劇場振付けを一手に占めるほど活躍し、歌舞伎(かぶき)俳優の門弟多数。
1983年(昭和58)6世の長女が7世宗家藤間康詞(みちのり)を名乗り、90年(平成2)に7世藤間勘十郎を襲名。
その長男が2世康詞を名乗った。
のち2002年に2世康詞は8世勘十郎を襲名。
なお6世勘十郎の妻、藤間紫(むらさき)は88年、紫派藤間流を創流して家元となった。
(2)勘右衞門家
初世(1813―51)は7世市川団十郎の門弟市川金太郎で、2世(勘十郎家でいう初世)勘十郎に入門(一説には3世勘兵衛に師事)、勘右衞門を名乗る。
2世(1840―1925)が歌舞伎座の振付師となり、隆盛の基盤を築いた。
3世(1870―1949)は流儀を発展させた7世松本幸四郎で、彼以降は代々歌舞伎俳優を兼ね、4世(1913―89)は2世尾上松緑(おのえしょうろく)、5世(1946―87)は1975年(昭和50)襲名で、初世尾上辰之助(たつのすけ)(没後、3世尾上松緑を追贈)であった。
6世(1975― )は93年(平成5)襲名で、4世尾上松緑である。
当流派門下に藤間政弥(まさや)、藤間藤子(ふじこ)ら、優れた人材を輩出した。
若柳流とは、日本舞踊の流派。
流祖、若柳寿童(じゅどう)(1845―1917)は初世花柳寿輔(はなやぎじゅすけ)の門弟で花柳芳松(よしまつ)を名乗っていたが、ささいなことから破門され、1893年(明治26)に独立。
東京・柳橋の花街を中心に活動し、その基盤を固めた。
1905年(明治38)若柳寿童と改名。
2世家元は寿童の高弟若柳吉蔵(きちぞう)(1879―1944)が17年(大正6)に継承、広く門下を育成して隆盛期を築いた。
3世家元は2世の養子で、44年(昭和19)に2世吉蔵を継いだが、のち家元制をやめて理事制をとることとなり、結局彼は京都に移って70年若柳寿邦(じゅほう)と改名。
若柳流3世宗家を名乗った。
88年に2世若柳寿童となり、89年(平成1)没。
長男若柳寿延(じゅえん)が4世家元となった。
竹内豊子の三男は5世家元若柳吉蔵を名乗っている。
理事制をとった多くの人々は51年(昭和26)に正(せい)派若柳流を結成した。
2代目総務の寿慶(じゅけい)が71年、直派(じきは)若柳会をたてたが、翌年死去するなど混乱し、分裂が続いた。
なお2世家元吉蔵没後、その長女吉世(きちせい)は京阪で発展して55年若柳流西家元となり、その没後は長女が継いでいる。
現在は正派若柳会(先の正派若柳流が改めた名)、4世、5世それぞれの家元の若柳流、直派若柳流が日本舞踊協会に所属するほか、多くに分かれている。
西川流とは、
日本舞踊の一流派。
(1)(宗家)西川流
初世仙蔵に始まり、江戸中期に2世扇蔵が確立、現在まで10世を数える。
藤間流の影響が濃く、縁故も深い。
2世、4世が名振付師として知られ、2世は『関の扉(せきのと)』『双面(ふたおもて)』『戻駕(もどりかご)』などの劇舞踊に、4世は『勧進帳』や、また、多くの変化舞踊に傑作を残した。
4世の門下から(名古屋)西川流、花柳(はなやぎ)流、七扇(ななおうぎ)流などが生まれ、さらに今日の多くの流派が派生している。
(2)(名古屋)西川流
西川鯉三郎(こいさぶろう)が流祖で、1841年(天保12)に始まる。
母体である宗家西川流に、篠塚(しのづか)流や能、狂言を摂取。
明治期には宗家西川流にかわる勢力を誇った。
2世鯉三郎は歌舞伎(かぶき)出身の特色を生かした技芸、新味ある振付けに実力を発揮。
主宰する鯉風会や名古屋おどり、また東宝歌舞伎、花街舞踊などに腕を振るい、文芸作品の舞踊化でも注目された。
1983年(昭和58)没。
3世家元はその長男西川右近(うこん)が継承。
長女左近(さこん)は1985年、西川流鯉風派をたて、分裂した。
(3)(正派)西川流
7世扇蔵の門弟喜代春が西川喜洲(にしかわきしゅう)を名乗り、1916年(大正5)に樹立。
現4世に至る。
坂東流とは、
日本舞踊の流派。
(1)坂東流
歌舞伎(かぶき)役者3世坂東三津五郎(みつごろう)を流祖とし、家元名は代々三津五郎。
現在まで10世を数える。
3世は文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)を代表する名手として、上方(かみがた)下りの3世中村歌右衛門(うたえもん)と競い、変化(へんげ)舞踊の隆盛を招いた。
『山帰り』『傀儡師(かいらいし)』など江戸の味を特色とする。
深川の永木河岸(えいきがし)に別宅があったことから「永木ぶり」とよばれる風を残した。
幕末の4世は3世の養子で、初演した作品のなかに周知の『三社祭』がある。
大正~昭和の7世は4世中村芝翫(しかん)の教えを受け、6世尾上(おのえ)菊五郎と並ぶ近代の名人。
離散していた坂東姓を名乗る人々を集めて流儀の確立に努めた。
当流には3世の高弟三津江(みつえ)をはじめ、お狂言師(大奥や大名家に招かれ歌舞伎や舞踊を演じる女性で、町家の子女にも舞踊を教えた)を多く出し、その後も花柳界との接触が薄い。
8世は研究心旺盛(おうせい)で知られ、彼の急死後、分裂騒ぎがあったが、8世の女婿(じょせい)7世坂東簑助(みのすけ)が9世を継いだ。
9世の死後は長男の5世坂東八十助(やそすけ)が10世を継いだ。
坂東流から出た流派の1つに勝見(かつみ)流がある。
(2)百々派坂東流(ももはばんどうりゅう)
3世坂東三津五郎の門弟坂東百々代(ももよ)が幕末にたてた一派。
代表者として百々代が3代続き、その後、家元百々一(ももかず)(1918年継承)の名が残っているが、1995年(平成7)理事制をしき、百々豊(ももとよ)(1923―2001)が理事長となった。
彼女の没後、2002年に百々三(ももぞう)(1937― )が理事長に就任した。
如何でしたか?
日本舞踊の流派ですね。
現在活躍している歌舞伎役者の先祖が多数登場していましたね。
日本舞踊と歌舞伎の関わりが良く分かりました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!