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国学の四大人って誰?

こんにちは!

 

 

今日は、国学の四大人について紹介したいと思います!

国学とは、江戸中期に興った、文献学的方法による古事記日本書紀万葉集などの古典研究の学問のことです。

 

国学の四大人に選ばれたのは、

荷田春満(かだのあずままろ)

賀茂真淵(かものまぶち)

本居宣長(もとおりのりなが)

平田篤胤(ひらたあつたね)

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

荷田春満

 

 

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荷田春満とは、江戸時代中期の国学者歌人

初名は信盛。

東丸から春満に改め、東万侶とも書く。

通称は斎宮

京都伏見稲荷の神官信詮 (のぶあき) の第2子。

家学としての神道と歌学を修め、元禄 10 (1697) 年妙法院宮の学問所に仕え、同 12年以後は江戸にあって研学し、江戸幕府の御用もつとめたが、享保8 (1723) 年以後は京都に帰り、国学の研究や子弟の教育に専念。

古典を本文批評的にまたは注釈的に研究することにより、古道を明らかにしようとした。

主著『万葉集僻案抄』『万葉集改訓抄』『伊勢物語童子問』。

歌道では定家盲信、古今伝授を排し、和歌は幼くはかなく詠むこととし、人情の誠を重んじたが、中世以来風俗が乱れたのはみだらな恋歌のためだとして、恋の歌は詠まなかった。

家集『春葉集』 (98) などがある。

門下に賀茂真淵などを輩出した。

 

 

 

 

賀茂真淵

 

 

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賀茂真淵とは、江戸時代中期の国学者歌人

神職岡部政信の次男。

俗姓は岡部、幼名は三四 (そうし) 、のち実名を政躬、真淵などと称し、衛士、県主、県居大人などと号した。

30歳の頃、浜松の脇本陣梅谷家の養子となった。

早くから文学に親しみ、和漢の学を修めて、荷田派の古学や古文辞学派の影響を受け、特に漢詩や和歌に才能を発揮した。

ときどき上京して荷田春満に学び、40歳の頃、江戸に出て浪々の生活をおくりつつ学事に努めた。

50歳のとき、和学をもって田安宗武に仕え、古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭、特に『万葉集』の研究にめざましい業績を示し、万葉調歌人としても特色をみせた。

本居宣長、荒木田久老、村田春海、加藤千蔭、楫取魚彦など国学、和歌双方にわたり門下が多い。

国学の体系を示す論著である『歌意考』 (1764) 、『国意考』 (65) 、『語意考』 (69) 、注釈書の『祝詞考』 (68) 、『万葉考』 (68) などが代表的な著作である。

その他の著作『伊勢物語古意』 (53) 、『冠辞考』 (57) 、『源氏物語新釈』 (58) 、『古今和歌集打聴』 (64) 、『国歌八論憶説』『岡部日記』『後の岡部日記』など。

 

 

 

 

本居宣長

 

 

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本居宣長とは、江戸時代後期の国学者

幼名小津富之助。

号は芝瀾、のち舜庵。

商家に生まれ、23歳のとき医学修業のため上京。

堀景山に儒学を学び、契沖の著作に触れ、古学に開眼。

27歳で歌論『排蘆小船』を書き、34歳のとき『石上私淑言』 (1763) 、『紫文要領』 (63) などの文学論を著わした。

同年松坂で賀茂真淵に出会い入門。

古事記』の詳細な注釈に取りかかり、34年をかけて『古事記伝』を完成。

書斎を鈴屋と名づけ、門人たちへの講義を行った。

『直毘霊』 (72) 、『馭戎慨言』 (77) 、『葛花』 (80) などはこの頃の古道論である。

天明の飢饉にあたり、紀州徳川治貞に求められて『秘本玉くしげ』の政治論に『玉くしげ』の君子道論を添えて奉った。

紀州徳川治宝に仕え、五人扶持を受けた。

『玉勝間』 (95~1812) や『源氏物語玉の小櫛』 (1799) 、彼の学問の方法論の集大成ともいうべき『宇比山踏』 (98) など多数の著書を著わし、国学の完成者として多大の影響を及ぼした。

国語研究にも画期的な業績を残しており、その研究は文法と音韻の2つに大別される。

法研究は係結を中心とする文中における語の呼応関係と活用の研究が中心であり、その著書にはそれぞれ『てにをは紐鏡』『御国詞活用抄』がある。

音韻研究は漢字音が1つのテーマで、『字音仮名用格』『漢字三音考』などが知られる。

また『古事記伝』では、上代文献の用字法についても調査し、語によって用いられる仮名に一定の排他的関係があることを指摘した。

 

 

 

 

平田篤胤

 

 

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平田篤胤とは、江戸時代後期の国学者

通称は正吉、半兵衛。

号は大角、気吹廼舎。

秋田佐竹藩大番組頭大和田清兵衛祚胤の4男。

寛政7 (1795) 年脱藩し江戸に出て学業に努め、同 12年に備中松山藩士平田篤穏の養嗣子となった。

享和3 (1803) 年本居宣長の書に啓発されて、本居春庭に入門し、国学に志し、処女作『呵妄書』を著わした。

翌年家塾真菅乃屋を開いて、子弟の教育にあたった。

文化9 (12) 年『霊能真柱』を著わし、その前後に『古道大意』『俗神道大意』『古史伝』など相次いで活発な著作活動を行った。

文政6 (23) 年京都に旅し、おのれの著作を仁孝天皇に献上し、本居大平、春庭に対面し、宣長の墓に詣でた。

天保 12 (41) 年江戸幕府から著述の禁止と江戸退去命令を受け、不遇のうちに死んだ。

彼の思想は幕末の尊王攘夷運動にも大きな影響を与えた。

その他の著書には『出定笑語』や『鬼神新論』 (20) 、『仙境異聞』 (22成立) 、『印度蔵志』 (26成立) 、『平田篤胤全集』 (15巻、1911~18) がある。

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史で知った方は多いのではないでしょうか?

私も受験時代に覚えました。

日本史については、より理解を深めていきたいと思います!

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!