こんにちは!
今日は、日本三大稲荷について紹介したいと思います!
日本三大稲荷に選ばれたのは、
豊川稲荷(愛知県)
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
京都東山の最南端、稲荷山の西麓に位置する。
祭神は宇迦之御魂大神(下社)、佐田彦大神(中社)、大宮能売大神(上社)の3神に、1499年(明応8年)に本殿に合祀された田中大神、四大神を加えて稲荷五社大明神と称し、全国に3万余りを数える稲荷神社の本祠である。
『延喜式』神名帳に「山城国紀伊郡稲荷神三社」とあるのは初めの3神を指し、名神大社に列せられている。
『山城国風土記』逸文に記された創祀伝承によれば、秦中家忌寸らの遠祖、伊侶巨秦公が富裕を奢り、餅を的にして矢を射たところ白鳥と化して飛び去り家運衰えた為、白鳥の降り立った地に神を祀ったのを創祀とし、711年(和銅4年)2月初午の日を鎮座の日とする。
稲荷山の3つの峰に上中下3社を祀ったが、1438年(永享10年)、足利6代将軍義教の立願により現在の山麓に移され、旧社地は稲荷山巡拝の神跡となっている。
この地は紀伊郡の地名の通りもと紀伊直の領地であり、御食持命を遠祖とする旧族の司祭した古社であったが、秦氏によってその信仰が継承され祭祀されていったと言えよう。
稲荷は稲生の意で、もとは農耕神であったが、平安時代に空海が東寺を造営したおり、その鎮守神とされてからは広く朝野の尊崇を集め、殖産興業神、商業神、屋敷神へと拡大していった。
旧官幣大社。
神事は創祀の時の詔命以来すべて賀茂社に準拠して行われ、4月祭礼の葵桂かけの神事にその遺風を留めているが、中でも2月初午の日の大祭は昔から大吉祥日として全国からの参詣人で埋め尽くされ、幕末の歌人橘曙覧の「稲荷坂見あぐる朱の大鳥居ゆり動かして人のぼり来る」の歌にもその様子が窺える。
神主家は秦氏の他、古くからの社家に荷田姓羽倉氏の2家があり、それぞれ御殿預と目代とを世襲職としたが、その東羽倉家からは国学者荷田春満が出ている。
例祭4月9日。
また、荷田春満旧宅が国の史跡として保存されている。
円福山と号する。
本尊は千手観音菩薩。
正しくは妙厳寺と言うが、山門の守護神として祀られた吒枳尼天(稲荷神の本地仏)によって通常は豊川稲荷の名で知られる。
1441年(嘉吉1年)、寒巌義尹の6代の法系である東海義易を開祖として創建。
曹洞宗三賽所の1つ。
伝えるところによれば、寒巌義尹は康元年間(1256~1257年)中国に渡って帰朝の折、船に白狐に乗った吒枳尼天が現れ、守護を約束したので、帰朝後その姿を刻み、護法の善神として祀ったと言う。
吒枳尼天像が祀られてから江戸末期以降の稲荷信仰の流行とともに参詣が多く、特に織田信長、豊臣秀吉、今川義元、徳川家康等の武将の帰依を受けた。
境内には山門、仏殿、吒枳尼天堂、三重塔、専門道場等があり、書院西には江戸初期の築山泉水庭園がある。
なお、東京都港区元赤坂の豊川稲荷は当寺の別院である。
社殿は石壁山腹の岩崖に組み上げられた丹塗りの高楼建築で、その華麗さから鎮西日光とも称される。
1662年(寛文2年)、肥前鹿島藩主鍋島和泉守直朝に入嫁した花山院萬子媛が、京都花山院邸内に祀られていた稲荷大神の分霊を勧請したのに始まる。
1687年(貞享4年)現在地に社殿が建立されてより、媛はここに居を移し、80歳で没するまで修行奉仕した。
社名は媛の諡である祐徳院瑞顔実麟大姉に因む。
例祭は3月初午の日。
他に2月初午日の初午祭、4月8日春祭、8月1日夏祭、12月8日秋祭がある。
旧県社。
如何でしたか?
伏見稲荷大社が圧倒的に有名ですかね。
祐徳稲荷神社は、初めて知りました。
また、豊川稲荷の東京別院は、櫻坂46や日向坂46が初詣として訪れていたのを見たことがあります。
最後までお読み頂き有難う御座いました!