いつか役に立つかもしれないムダ知識

生きていく上では必要ではない雑学や知識を投稿していきます。クイズなどにも役立つかもしれません。

四鏡って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、四鏡について紹介したいと思います!

四鏡とは、平安時代後期から室町時代前期までに成立した「鏡物」と呼ばれるの4つの歴史物語(歴史書)です。

 

四鏡に選ばれたのは、

大鏡

今鏡

水鏡

増鏡

の4つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

大鏡

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210726073054j:image

 

 

大鏡とは、平安時代後期の歴史物語。

作者未詳。

6巻。

ただし、増補改修が加えられた流布本は通常8巻、古本系統本は通常3巻。

12世紀に入っての成立か。

文徳天皇から後一条天皇まで14代176年の歴史を列伝体で物語風に叙述し評論している。

栄花物語』と同じく藤原道長の栄華と人物を主眼として描き、万寿2年(1025年)、雲林院で催された菩提講に参集した大宅世継(190歳)、夏山繁樹(180歳)とその妻及び若侍がそれぞれの見聞を語り、批評する座談の形式を採る。

同年は道長の栄華が絶頂にあった時で、その時点を捉えて彼に代表される藤原氏の繁栄の歴史を描くとともに、裏面の政権争奪等を鋭く暴き出して、優れた貴族社会史となっている。

本書の影響を受け『今鏡』『水鏡』『増鏡』等、所謂鏡物が書かれた。

 

 

 

 

 

今鏡

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210726073138j:image

 

 

今鏡とは、『小鏡』『続世継』とも言う。

大鏡』『水鏡』『増鏡』とともに四鏡の1つ。

平安時代末期の歴史物語。

10巻。

後一条天皇から高倉天皇に至る時期(1025~1170年)の朝廷及び藤原、村上源氏両氏の歴史を主として記す。

大鏡』に語り手として設定された「大宅世継」の孫で、紫式部に仕えたと称する長谷寺参詣の老女の昔語りを筆記したという体裁を採る。

抒情的な文章で、文学、芸術等、貴族生活の華麗な側面を詳述し、政権争い等に触れることは少ない。

老女の昔語りの時点を嘉応2年(1170年)としているが、作品の成立期もその頃であろう。

作者は歌人として著名な藤原為経法名寂超)か。

なお、巻十の「打聞」は和歌説話や源氏物語論等、余談めいたものであるが、かえって注目される。

国史大系』に収録。

 

 

 

 

 

水鏡

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210726073307j:image

 

 

水鏡とは、平安時代後期の歴史物語。

著者は中山忠親と言われるが未詳。

3巻。

嘉応2年(1170年)~建久6年(1195年)の間に成立。

鏡物、四鏡の1つ。

神武天皇から仁明天皇までの、生い立ち、事績、主な事件を記し、批評を加える。

中年の修行者が長谷寺に詣でた折、徹夜の勤行の果てた後、74歳の老女に語って聞かせるという体裁を採り、『大鏡』が文徳天皇以降を記したのを補う意味で書かれたもの。

内容は全て『扶桑略記』に拠ったものと推定され、仏教界の消息に詳しいが、史書としては荒唐無稽な記事を含む。

 

 

 

 

 

増鏡

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210726073405j:image

 

 

増鏡とは、南北朝時代の歴史物語。

作者は二条良基か。

巻冊数不定

『水鏡』『大鏡』とともに三鏡の1つ、『今鏡』を加えて四鏡の1つで、鏡物最後の作。

元弘3年=正慶2年(1333年)~天授2年=永和2年(1376年)頃成立。

治承4年(1180年)7月、後鳥羽天皇誕生から元弘3年=正慶2年6月、後醍醐天皇隠岐からの還幸までの154年間の事跡を編年体で記したもの。

承久の乱元弘の乱という二大事件を山として、当時の公家の記録や日記類を多数引用し、和文脈の文章で叙述を進めている。

公家の側に立って、朝廷を中心に宮中の儀式や御遊の有様等を主として描き、王朝生活への憧憬が著しい。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史や古文で聞いたことがあるのではないでしょうか?

私も覚えましたが、内容としては『大鏡』以外はあまり知らなかったので、勉強になりました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

江戸四宿って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、江戸四宿について紹介したいと思います!

江戸四宿とは、江戸時代に五街道の各々について江戸・日本橋に最も近い宿場町の総称です。

 

江戸四宿に選ばれたのは、

千住宿

板橋宿

内藤新宿

品川宿

の4つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

千住宿

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210725112925j:image

 

 

千住宿とは、現在の東京都足立区南部から荒川区北部にかけて形成された日光道中の第1宿。

江戸四宿の1つ。

千住は古くから荒川(現在の隅田川)北岸の交通の要地で、1594年に千住大橋が架けられ、1625年、宿に指定された。

江戸日本橋からは2里8町、次宿の草加宿(現、埼玉県草加市)まで同じく2里8町。

水戸佐倉道や下妻道が当宿で分岐、水戸佐倉道の新宿(現、葛飾区)や岩槻道(赤山街道)の舎人(現、足立区)等にも継ぎ送った。

宿場は初め千住1丁目〜同5丁目(現、足立区)の5町、後に南に続く掃部宿(河原町・橋戸町を含む、現、足立区)、次いで荒川南岸の小塚原町・中村町(現、荒川区)が加えられ、計10町となる。

千住1丁目〜5丁目を本宿又は千住北組、河原町・橋戸町を含む掃部宿を新宿又は千住中組、小塚原町・中村町を千住南組と言った。

宿建人馬は50人・50匹。

1843年には旅籠屋55軒、宿内の家数2370・人数9000余り、本陣・脇本陣各1。

南組の旅籠屋を中心に食売女(飯盛女)が置かれ(公許150人)、遊里としても機能。

また、近郊農村と江戸市中を繋ぐ流通拠点の役割も果たし、青物市場が河原町に立ち、地廻り米を扱う米穀問屋も多かった。

 

 

 

 

 

板橋宿

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210725112948j:image

 

 

板橋宿とは、現東京都板橋区の東部に形成された中山道の第1宿で、下板橋村内に成立したので下板橋宿ともいう。

江戸四宿の1つ。

日本橋からは2里半、次宿の蕨宿まで2里10町。

宿建人馬は50人・50匹。

地名の由来となった石神井川に架かる板橋を中心に発達。

橋の北西側が上宿(現、本町)、南東側が中宿(現、仲宿)で、中宿の更に南東に平尾宿(現板橋1丁目〜3丁目)が続き、この3宿で宿役を負担。

宿の東側は加賀金沢藩の下屋敷であった。

1843年には旅籠屋54軒、家数573・人数2448。

本陣は中宿にあり、脇本陣は上・中・平尾の各宿に1軒ずつ。

食売女(飯盛女)150人を公許されていたが、他の3宿(品川宿内藤新宿千住宿)に比べ、遊興地としては寂れていた。

 

 

 

 

 

内藤新宿

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210725113009j:image

 

 

内藤新宿とは、現在の新宿区南部に形成された甲州道中の第1宿。

江戸四宿の1つ。

宿西端の追分で青梅街道が分岐。

1697年、江戸浅草阿部川町名主喜兵衛等、5人が幕府に宿の開設を願出、1698年に許可され、翌1699年から伝馬業務を開始。

信濃高遠藩主内藤家の下屋敷の一部を割いて新しい宿が成立したので内藤新宿の名があるという。

江戸日本橋からは2里、次宿は上・下の高井戸宿で、下高井戸宿までは2里、上高井戸宿まで2里余り。

他に青梅街道中野村(現、中野区)等にも継ぎ送った。

1718年に宿は一旦廃止となり、1772年に再開。

廃止となった理由は、旅籠屋に食売女(飯盛女)を置いて遊里化し、享保改革の風紀粛正に抵触したから、甲州道中の利用者が少なかったから等、諸説がある。

宿場は東の四ッ谷大木戸寄りから下町・仲町(中町)・上町に分かれ、問屋場は時代によってこの3町の間で動いた。

宿建人馬は25人・25匹。

茶店・商家等も多く、再開後は150人の食売女を抱えることが公許されたが、実数はこれよりも多く、文化年間(1804年〜1818年)には吉原や品川宿をも凌ぐ賑わいとさえ言われた。

1843年には旅籠屋24軒・家数698・人数2377、本陣は仲町にあるが、脇本陣は無かった。

 

 

 

 

 

品川宿

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210725113033j:image

 

 

品川宿とは、近世東海道の第1宿で、江戸四宿の1つ。

現在の東京都品川区北東部、目黒川の河口付近に発達。

同地は中世既に品川湊として発展していたが、徳川家康による伝馬・宿駅制度の整備に伴い、1601年頃に正式に東海道の第1宿となる。

江戸日本橋からは2里、次宿の川崎宿まで2里半。

宿建人馬は100人・100匹。

当初は目黒川北岸の北品川宿と南岸の南品川宿の2宿で伝馬役を勤めていた。

その後、北品川宿の北に続く一帯にも水茶屋等が立ち並ぶようになり、品川新町と呼ばれて遊里化。

宿役負担と引換えに食売女(飯盛女)を置くことを許されていた南北両宿はこれを非法と訴える。

1722年、毎年歩行人足1万2000人を負担することで品川新町が品川宿に加えられ、歩行新宿と呼ばれるようになった。

その後はこの3宿で宿役を負担。

江戸の庶民が宿近辺の牛頭天王社・東海寺・品川寺・海晏寺や少し離れた川崎大師・目黒不動等への参詣の折に立ち寄る行楽地、また準公認の遊所としても賑わい、北の吉原、南の品川と称された。

明和年間(1764年〜1772年)以降食売女は公許500人、旅籠屋は最盛期180軒を数えた。

1843年には旅籠屋93軒・家数1561・人数6890。

本陣は北品川宿にあり、南品川宿と歩行新宿に脇本陣があった。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

現在の北千住、新宿、品川と東京都でもターミナル駅として有名になっていますね。

このような主要駅を歴史の観点から散策してみるのも面白いかもしれないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

南朝四代って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、南朝四代について紹介したいと思います!

 

南朝四代に選ばれたのは、

後醍醐天皇

後村上天皇

長慶天皇

後亀山天皇

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

後醍醐天皇

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721163504j:image

 

 

後醍醐天皇とは、第96代の天皇(在位1318~1339年)。

名は尊治。

後宇多天皇の第2皇子。

母は談天門院忠子(参議藤原忠継の娘)。

文保2年(1318年)、即位。

後宇多法皇院政のもとにあったが、元亨1年(1321年)から院政を廃して天皇親政を復活した。

まず、吉田定房北畠親房らの人材を集め、記録所を再興し、政治の改革に努めた。

しかし、天皇政治を阻む根源が鎌倉幕府にあることを痛感すると、日野資朝、俊基らの公卿と共に討幕計画を進めた。

正中の変元弘の乱と2度とも失敗に終わり、元弘2年=正慶1年(1332年)、隠岐に流されたが、後に隠岐を脱出して伯耆に移り、幕府が滅亡すると京都に帰還し、建武中興が開始された。

しかし、足利尊氏の離反で挫折して天皇は吉野に逃れた。

建武年中行事』『建武日中行事』の著がある。

陵墓は奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵。

 

 

 

 

 

後村上天皇

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721163530j:image

 

 

後村上天皇とは、第 97代の天皇(在位1339~1368年)。

南朝第2代の天皇

名は義良。

後醍醐天皇の皇子。

母は新待賢門院藤原廉子(阿野公廉の娘)。

元弘3年=正慶2年(1333年)、北畠顕家陸奥に赴き、建武中興政府の東北鎮護にあたった。

建武2年(1335年)、足利尊氏追討の為、上洛わ再び顕家と共に東下、陸奥太守となった。

延元2年=建武4年(1337年)、顕家と西上、各地に転戦した。

延元4年=暦応2年(1339年)、後醍醐天皇の後を受け践祚、吉野を皇居としたが、正平3年=貞和4年(1348年)、高師直の攻撃で賀名生に移った。

正平7年=文和1年(1352年)、尊氏の帰順で一時入京したが、間もなく尊氏の叛により賀名生に帰り、その後、摂津住吉に移った。

京都を回復してもすぐ奪回されて京都に還幸することができず、苦難の多い悲劇的な生涯であった。

御製の一部は『新葉和歌集』に収められている。

陵墓は大阪府河内長野市の檜尾陵。

 

 

 

 

 

長慶天皇

 

 

長慶天皇とは、第 98代、南朝第3代の天皇(在位1368~1383年)。

名は寛成。

後村上天皇の第1皇子。

母は中宮嘉喜門院藤原勝子。

正平3年=貞和4年(1348年)、父帝と共に穴生 に移り、その後も行宮を転々とし、正平23年=応安1年(1368年)、父帝の死没の後を受けて践祚

次いで同母皇弟煕成親王を皇太弟とし、弘和3年=永徳3年(1383年)から翌年の元中1年=至徳1年(1384年)の間に皇太弟、即ち後亀山天皇に譲位した。

天皇の即位については古来疑問があり、『大日本史』は在位説、塙保己一は非在位説をとって明治に及んだが、八代国治の研究により、1926年、皇統に加列された。

学を好み『源氏物語仙源抄』を著わし、諸書の研鑽に努めた。

また、『新葉和歌集』は天皇の準勅撰。

陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵。

 

 

 

 

 

後亀山天皇

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721163622j:image

 

 

後亀山天皇とは、第99代の天皇(在位1383~1392年)。

南北朝時代南朝方最後の天皇

名は煕成。

後村上天皇の皇子。

母は嘉喜門院藤原勝子。

弘和3年=永徳3年(1383年)、即位。

当時、南朝方の勢威は地に落ち、最早回復の期待も失われ、朝廷では和平派が力を得、北朝方も多年の兵乱に苦しみ和平を望んでいた。

元中9年=明徳3年(1392年)、足利義満の側から和平の勧説があり、南朝の正統性の承認、以後の両統迭立等を条件として両朝の合一が図られた。

よって、天皇は吉野より京都へ還幸、神器を北朝後小松天皇に伝え、南北朝合一が実現した。

天皇太上天皇の尊号を受け、嵯峨大覚寺を仙洞として住した。

しかし、義満の没後、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、応永17年(1410年)、吉野に出奔、次いで伊勢国司の北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったが、同22年、和議が成立し、翌年、幕府の請によって帰洛した。

陵墓は京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨小倉陵。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

南北朝時代における南朝天皇4人ですね。

後醍醐天皇以外は、あまり有名では無いですが、それぞれ南朝での苦労があるようですね。

また、これら4人を含む大覚寺統は、亀山天皇で始まり、後亀山天皇で終わるという覚えやすい流れになっていますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

大学群の神奈川県央三大学って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、大学群の神奈川県央三大学について紹介したいと思います!

 

神奈川県央三大学とは、

産業能率大学

神奈川工科大学

東京工芸大学

の3つの大学です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

産業能率大学

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721155907j:image

 

 

産業能率大学とは、私立大学。

産学協同の理念もとに、経営管理の理論研究と実践の場における応用力の養成を行う。

上野陽一によって創立された日本産業能率研究所を母体として、1942年に日本能率学校を開設し、1950年に産業能率短期大学を設立。

1978年に4年制の産業能率大学として発足し、経営情報学部を置いた。

1989年、産能大学に改称。

2000年、経営学部を増設。

2006年、現校名に改称。

2007年、経営情報学部を情報マネジメント学部に改組。

入学定員は560人(1997年)。

1992年、大学院を設置。

所在地は東京都世田谷区。

 

 

 

 

 

神奈川工科大学

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721160238j:image

 

 

神奈川工科大学とは、私立大学。

1963年、開学の幾徳工業高等専門学校を母体に、1975年に幾徳工業大学として開学。

工学部、情報学部、創造工学部、応用バイオ科学部、看護学部を置く。

1988年、現校名に改称。

1989年に大学院を設置。

所在地は神奈川県厚木市

 

 

 

 

 

東京工芸大学

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721160334j:image

 

 

東京工芸大学とは、工科系の私立大学。

1923年、6代目杉浦六右衛門により創立の小西写真専門学校を母体として、東京写真専門学校、東京写真工業専門学校を経て、1950年に東京写真短期大学となり、1966年に東京写真大学として発足。

1977年、現校名に改称。

当初の工学部に加え、1993年、芸術学部を設置。

入学定員は840名(1997年)。

1978年に大学院を設置。

本部は東京都中野区本町。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

厚木市伊勢原市にキャンパスを置く3つの大学ですね。

他にも、東京農業大学東海大学松蔭大学といったように、この地域には意外にも多くの大学が所在しているのですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

四部合戦状って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、四部合戦状について紹介したいと思います!

 

四部合戦状に選ばれたのは、

平家物語

保元物語

平治物語

承久記

の4つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

平家物語

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721154330j:image

 

 

平家物語とは、鎌倉時代の軍記物語。

作者は諸説あるが、『徒然草』に記す信濃前司行長説が有力。

成立年未詳。

原作は鎌倉時代前期の承久の乱(1221年)以前の成立で3巻と推定される。

南北朝時代頃までに増補改修が行われ、6巻(延慶本)、12巻(八坂本)、20巻(長門本)等があり、『源平盛衰記』 48巻も一異本と認められる。

流布本(覚一本系)は 12巻に灌頂巻を添えたもの。

編年体紀伝体とを併用しながら平氏の興亡を描いた叙事詩的歴史文学。

平氏の運命を無常観によって説き、仏教思想が濃いが、儒教色も著しい。

文章は和漢混交文、七五調を主とする律文と散文とを織り交ぜた詩的なもので、国民的叙事詩とも言われる。

 

 

 

 

 

保元物語

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721154502j:image

 

 

保元物語とは、鎌倉時代前期の軍記物語。

『保元記』『保元合戦記』とも言う。

作者、成立年未詳。

3巻。

平治物語』と並称され、同じ作者の手に成るとも言われるが、別に成立した作品と思われる。

平治物語』と同じく異同の大きい種々のテキストがある。

保元の乱を扱った物語で、初めは保元の乱に纏わる逸話を集成したような形態であったものが、琵琶法師等の手によって語り物として抒情性の豊かな一貫した物語に成長したと言われる。

中でも、源為朝の英雄ぶりが印象的で、江戸時代後期の滝沢馬琴の『椿説弓張月』等、後代の文学に影響を与えた。

 

 

 

 

 

平治物語

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721154608j:image

 

 

平治物語とは、鎌倉時代前期の軍記物語。

『平治記』とも言う。

作者、成立年未詳。

3巻。

保元物語』と並称され、同じ作者の手に成るとも言われるが、琵琶法師の語り物として流布した間に文体が近寄ったもので、元来は全く別に成立した作品であったと思われる。

鎌倉中期の『平治物語絵巻』の詞書が現存テキストとして最古であるが、これと同系統の本文を持ったテキストが鎌倉前期に成立したと考えられる。

物語は平治1年(1159年)12月に起った所謂平治の乱を扱ったもの。

源義朝の子である悪源太義平の武者ぶり、池禅尼による源頼朝の命乞い、3人の幼児を抱いた常盤御前の哀話等は後世に歓迎された。

 

 

 

 

 

承久記

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210721154647j:image

 

 

承久記とは、鎌倉時代中期の軍記物語。

作者、成立年未詳。

2巻が原型らしいが、色々の異本がある。

承久3年(1221年)に起こった承久の乱の終始を記したもので、乱の原因を後鳥羽上皇の失政に求め、鎌倉幕府軍の破竹の勢いの進撃、相次いで敗れる上皇方の軍勢の行く末等を描く。

最後は、上皇方の首謀者の処分や上皇配流の記事であるが、『平家物語』程には無常感が迫って来ない。

保元物語』『平治物語』『平家物語』とともに「四部合戦状」の1つで,語り物として琵琶法師により吟じられた。

承久の乱そのものの事実性が軍記物語としての文学性より優っている為、作品としての評価は落ちる。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史でも登場する4つの戦を題材にした物語ですね。

来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条義時が主人公なので、源平合戦承久の乱が大きく取り上げられるかもしれないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!