こんにちは!
今日は、京都五山について紹介したいと思います!
京都五山に選ばれたのは、
の5つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
霊亀山と号す。
京都五山の1つ。
興国6=貞和1 (1345) 年に足利尊氏が後醍醐天皇の追善供養のために建立した。
夢窓疎石 (むそうそせき) の開山。
同寺造営資金調達のため元との貿易を企て天龍寺船を派遣した。
以後同寺はたびたび火災にあい、現在の堂宇は明治の中頃に峨山昌禎らが再建したもの。
1876年に独立して一派の本山となった。
相国寺とは、京都市上京区今出川通烏丸にある臨済宗相国寺派の本山。
京都五山の1つ。
万年山と号する。
弘和2=永徳2 (1382) 年に足利義満が後小松天皇の勅願を奉じて創建した。
開山は夢窓疎石。
足利氏代々の尊崇を受けたが、応仁の乱以後衰微した。
その後豊臣、徳川両氏の寄進により堂宇も補修され旧観を回復したが、いくたびか焼失し、その後再建された。
国宝『無学祖元墨跡』を蔵する。
開山は栄西。
鎌倉幕府から施入されたと伝えられる寺域は「五条以北、鴨川以東」とされ広大であり、禅と止観 (天台) と真言の三宗を兼学する道場として建てられた。
当初は天台宗の別院として位置づけられたが、蘭渓道隆が正元1 (59) 年に住持してから禅寺としての性格が強まり、深草天皇の諱「久仁」の仁字を避け「建寧寺」と号するようになった。
建武年間 (1334~1337) に五山となり、興国2=暦応4 (41) 年には五山の第4位、元中3=至徳3 (86) 年には第3位になった。
歴代の住持には五山文学に名を連ねる学僧たちが並び立ち、五山文学の府として権威を誇り、「建仁寺の学者面」ともいわれた。
伽藍はたびたび火災にあい、その都度復興されてきた。
正嘉2 (1258) 年の火災では円爾弁円が復興し、天正年間には安国寺恵瓊が再建に努力したという。
天明8 (1788) 年の『禅宗済家五山建仁寺末寺帳』には、末寺の総計 182寺を数え、同年の『禅宗臨家五山建仁寺派下廃壊改派寺院牒』には、総計 181寺が書上げられている。
国宝の俵屋宗達筆紙本金地著色『風神雷神図屏風』をはじめ、紙本墨書『明恵上人筆消息』『一山一寧墨跡』 (1幅) 、『宋拓石橋可宣筆三自省』 (3幅) などの墨跡、絹本著色『十錬四翫漢像』、紙本墨画『竹林七賢図』、紙本墨画『花鳥図』、紙本淡彩『琴棋書画図』、紙本墨画『山水図』、紙本墨画『雲龍図』などの絵画や、勅使門と方丈が重要文化財に指定されている。
毎年4月 20日には開山忌が催され、茶礼の雰囲気を残す「四つ頭茶礼」が行われる。
慧日山と号す。
嘉禎2 (1236) 年九条道家の創立。
鎌倉時代末期に焼失し、室町時代に再建され、のち豊臣秀吉、徳川家光などが諸堂を修復した。
1881年仏殿、方丈、法堂などを焼失したが、漸次復興。
焼失を免れた三門は国宝に指定されている。
永長2 (1097) 年に白河上皇が郁芳門院の遺宮を寺としたのに始まり、正嘉年間 (1257~59) に住僧が円爾弁円に帰依し、禅寺として万寿寺と名づけた。
元中3=至徳3 (1386) 年に京都五山の第5位に列せられた。
如何でしたか?
日本史を学んだことがある人は、聞いたことがあるのではないでしょうか?
相国寺と万寿寺には、まだ行ったことがないので、近いうちに行ってみたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!