こんにちは!
今日は日本三名城について紹介したいと思います!
数ある城の中で日本三名城に選ばれたのは、
の3つです。
これら以外に、大阪城や名古屋城などを日本三名城に数えることがありますが、今回は上記の3つについて簡単に紹介したいと思います!
姫路城
別名、白鷺城。
正平1年=貞和2年(1346年)に赤松貞範が築城したのに始まるという。
以来、室町時代は赤松氏によって保たれ、戦国時代には小寺氏が在城した。
豊臣秀吉が中国征伐の拠点として、天正8年(1580年)、ここに3層の天守閣を築いた。
現在の規模にしたのは、慶長5年(1600年)、城主となった池田輝政で、その後入封した本多、松平、榊原の諸氏が三の丸、西の丸を改修し、寛延2年(1749年)以来は酒井氏の居城として明治に至った。
城郭は、姫山を利用し、内・中・外の3重の堀を回らし、内・中・外の3重の郭からなり、東西約1635m、南北約1744mの広大なもの。
内部は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸からなり、本丸には、外部5層、内部6階の大天守と西、乾、東の3小天守を置き、これらを渡し櫓 で連絡させている。
上下左右に多数の櫓、城門、土塀を配し、これに無数の狭間を設けて防備を固くしてある。
各櫓は千鳥破風や唐破風によって変化に富み、白漆喰塗りの白壁の総郭は一大美観を呈し、その構造とともに日本城郭史上の粋をなしている。
永正1年(1504年)、小笠原氏の一族島立貞永が築城。
以後城主は屡々変わったが、天正10年(1582年)、小笠原貞慶が旧領を回復すると深志城を松本城と改名、城郭及び城下町の普請をした。
現存の桃山期寒冷地型連結式5層6階の天守とその周囲の縄張り、建造にあたったのは天正18~慶長18年(1590〜1613年)の間在封していた石川氏(数正、康長) 。
以降近世を通じて小笠原、松平、堀田、水野諸氏の居城であった。
1936年国宝、1950年、重要文化財に指定され、1950~1955年、解体修理、1953年新国宝の指定を受けた。
熊本城
銀杏城とも言う。
室町時代中期に菊池氏の一族出田氏が千葉城を築城し、後、鹿子木親員が改築、隈本城と改称した。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐後、佐々成政が入城したが、翌天正16年(1588年)、佐々成政の死後、加藤清正が入城した。
慶長6年(1601年)、清正は大規模な築城工事を起こし、慶長12年(1607年)に竣工したと言われ、同時に熊本城と改称した。
工事の監督には飯田覚兵衛、森本儀太夫があたり、城の全容は、7層の一ノ天守閣をはじめ、二ノ天守閣、櫓49、櫓門18、城門29、これを擁するに、坪井川を内堀とし、白川と井芹川を外堀とする周囲9kmに及ぶ豪壮なものとなった。
銀杏城の名は加藤清正が築城記念に2本の銀杏を本丸前に植えたのに由来する。
加藤清正の子加藤忠広が、寛永9年(1632年)、出羽国庄内に配流になると、細川忠利が城主となり、以後明治維新にいたるまで細川氏の居城となった。
明治4年(1871年)、ここに鎮台が置かれ、1877年、西南戦争に際し、谷干城以下の籠城戦下において、宇土櫓を残し主要な建造物は焼失した。
第2次世界大戦後、天守閣その他が再建された。
2016年、熊本地震が発生し、建物の損壊や石垣の崩落など大きな被害を受けた。
如何でしたか?
どの城も比較的有名な城ですね。
姫路城は白色、松本城と熊本城は黒色の天守閣といった特徴があり、美しいですね!
松本城だけは行ったことがないので、今度行ってみたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!