いつか役に立つかもしれないムダ知識

生きていく上では必要ではない雑学や知識を投稿していきます。クイズなどにも役立つかもしれません。

三河三奉行って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、三河三奉行について紹介したいと思います!

三河三奉行とは、徳川家康三河時代に奉行として活躍した3人の戦国武将です。

 

三河三奉行に選ばれたのは、

高力清長(こうりききよなが)

本多重次

天野康景(あまのやすかげ)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

高力清長

 

 

高力清長とは、戦国〜江戸時代前期の武将、大名。
享禄3年生まれ。

高力重長の孫。

徳川家康に仕える。

三河(愛知県)岡崎奉行等を務め、小牧・長久手の戦いの際には和議の使者となった。

家康の関東入部後、天正18年(1590年)、武蔵岩槻城(埼玉県)城主となり、2万石を領した。

慶長13年1月26日、死去。

79歳。

通称は与左衛門。

 

 

 

 

 

本多重次

 

 

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本多重次とは、戦国〜織豊時代の武将。
享禄2年生まれ。

本多重正の子。

松平清康・広忠に仕え、徳川家康重臣となる。

岡崎三奉行の1人で、激しい性格から鬼作左と呼ばれた。

長篠の戦いの時、妻に宛てた短い手紙は有名。

文禄5年7月26日、死去。

68歳。

通称は八蔵、作十郎、作左衛門。

 

 

 

 

 

天野康景

 

 

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天野康景とは、織豊〜江戸時代前期の大名。

天文6年生まれ。

徳川家康に仕え、三河(愛知県)三奉行の1人として民政に活躍。

慶長6年、駿河静岡県)興国寺藩主(1万石)となる。

慶長12年、藩の足軽天領の農民を殺害した事件で、幕府の査問を拒否した為、改易。

慶長18年2月24日、死去。

77歳。

初名は景能。

通称は又五郎、三郎兵衛。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

三河三奉行は、岡崎三奉行とも呼ばれているのですね。

こう見てみると、徳川家康は家臣恵まれていたのだなと思いました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

室町幕府三管領って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、室町幕府三管領について紹介したいと思います!

管領(かんれい)とは、将軍を補佐して政務を総轄した職名です。

 

室町幕府三管領に選ばれたのは、

細川氏

畠山氏

斯波氏(しばし)

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

細川氏

 

 

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細川氏とは、清和源氏

室町幕府三管領家の1つ。

足利義季が上野から三河国額田郡細川郷に移り、郷名を称したことに始まる。

一族は足利尊氏の挙兵に応じて各地に転戦。

尊氏西走の際は四国に赴き、ここに領国体制の基礎を築き、後に讃岐、河内、和泉、阿波、淡路等の守護となった。

清氏の時、室町幕府の執事となったが、足利義詮に背いて滅ぼされた。

しかし、清氏の従兄弟、頼之は、正平22年=貞治6年(1367年)、義詮の死に臨んで、子の義満を託されて執事(管領)となった。

この後、頼之の子孫は屡々管領となって幕府に重きを為した。

応仁の乱後、守護領国体制が崩れ、一族が分裂して相争い、天文21年(1552年)には本拠地阿波までも三好氏等に蹂躪されて滅んだ。

その後、支流の長岡藤孝(細川幽斎)の時、再興され、忠興の時に丹波宮津12万石の大名となり、関ヶ原の戦いを経て、徳川氏から豊前小倉 35万9000石に封じられ、寛永9年(1632年)には肥後熊本54万石の大名に封じられた。

明治になって侯爵。

熊本支藩宇土細川、常陸谷田部の細川は共にこの支流で、明治に至り子爵を授けられた。

 

 

 

 

 

畠山氏

 

 

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畠山氏とは、清和源氏の流れをくみ、足利義康の孫、義純を祖とする。

義純の子、泰国の時、畠山氏を称して足利氏に従属し、国清の時、足利尊氏に従って功を立て、足利氏一門として威を振るい、伊豆、紀伊の守護や関東管領足利基氏の執事となったが、後、基氏に滅ぼされた。

しかし、国清の弟、義深は越前、能登の守護となり、子の基国は河内、越中能登等の守護、応永5年(1398年)、管領となり、満家、持国と相次いで、細川、斯波両氏と並んで管領畠山氏の地位を確立した。

しかし、応仁の乱によって畠山氏の守護領国制が動揺し、文明 17年(1485年)、山城国一揆によって山城からの撤退を要求され、没落の一途を辿った。

最後の拠点河内国も台頭してきた三好長慶に脅かされ、遂に織田信長によって滅ぼされた。

 

 

 

 

 

斯波氏

 

 

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斯波氏とは、室町時代の豪族。

清和源氏足利氏の支流。

足利泰氏の子、家氏が陸奥国斯波郡に下向して斯波氏を称したのに始まる。

代々尾張守となったので尾張家とも呼ばれた。

宗家、家貞を経て高経の時、元弘の乱にあたり、足利尊氏の挙兵に応じて戦功を重ね、特に北陸地方の経営に功績を立てて越前、若狭等の守護に任じられた。

以後、隆盛に向かい、その子の義将は3度管領の要職に就いて室町幕府の基礎を固めた。

細川、畠山両氏と共に三管領と称せられ、幕府内で最も格式高い家柄を誇った。

義将は越前、若狭の他、越中能登尾張遠江信濃等の守護職を合せて大いに勢力を振るい、義将以後は代々兵衛督、兵衛佐に任じられたので、武衛家とも呼ばれた。

義将の後も、義重、義淳と相次いで管領となり、幕府内で重んじられたが、義郷の子、義健に嗣子が無く、家臣らの計らいで一族持種の子、義敏を養子として家督を継がせた。

しかし、義敏は重臣らとことごとに対立し、彼らの要求で将軍義政の為に退けられ、代わって渋川義鏡の子、義廉が家督を継ぎ、管領に任じられたが、義敏、義廉の家督争いが一因となって、やがて応仁の乱が勃発した。

乱後、本拠越前は朝倉氏、その分国尾張織田氏遠江は今川氏へと、各守護代の領有に帰し、義廉の子である義達、孫の義統は僅かに織田氏に奉じられて尾張清洲に居たが、義統の子、義銀は永禄4年(1561年)、織田信長に追われて滅亡した。

庶流に、高経の弟、家兼を祖とする奥州の大崎氏、最上氏がある。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史で登場する三管領ですが、それまでの変遷やその後についてはあまり知られていないかもしれないですね。

結局、細川氏だけが明治時代まで生き残っており、細川藤孝の能力の高さを改めて感じました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

大学群の南九州国立四大学って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、大学群の南九州国立四大学について紹介したいと思います!

 

南九州国立四大学とは、

鹿児島大学

熊本大学

大分大学

宮崎大学

の4つの大学です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

鹿児島大学

 

 

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鹿児島大学とは、国立大学法人

1949年に第七高等学校、鹿児島師範学校、鹿児島青年師範学校、鹿児島高等農林学校、鹿児島水産専門学校を統合して、4学部(文理学、教育学、農学、水産学)からなる新制大学として発足した。

1955年に鹿児島県立大学を移管して医学部と工学部を、1965年に文理学部を改組して法文学、理学部、教養部を設置、更に1977年、歯学部を増設、1997年、教養部廃止、2012年、農学部獣医学科が山口大学と合同で6年制の共同獣医学部に改組。

1959年、大学院を設置。

本部は鹿児島県鹿児島市郡元町にある。

 

 

 

 

 

熊本大学

 

 

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熊本大学とは、国立大学。

1949年に第五高等学校、熊本師範学校、熊本青年師範学校、熊本医科大学(付属医学専門部を含む)、熊本薬学専門学校、熊本工業専門学校を統合して、新制大学として発足。

法文学部、教育学部、理学部、医学部、薬学部、工学部の6学部を置いた。

1979年、法文学部を改組して文学部、法学部を設置し、7学部体制となる。

1955年、大学院を設置。

本部は熊本県熊本市にある。

 

 

 

 

 

大分大学

 

 

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大分大学とは、国立大学法人

1949年に大分高等商業学校、大分師範学校、大分青年師範学校を統合して、学芸学部(1966年、教育学部に、1999年、教育福祉科学部に改称、2016年、教育学部と福祉健康科学部に改組)と経済学部からなる新制大学として設置された。

1972年、工学部を増設、2003年、大分医科大学と統合して医学部を設置し4学部構成となっている。

2017年、工学部を改組し、理工学部を設置。

1977年、大学院を開設、教育学、経済学、工学等、5研究科を持つ。

大分県大分市旦野原にある。

 

 

 

 

 

宮崎大学

 

 

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宮崎大学とは、国立大学法人

1949年に宮崎農林専門学校(旧宮崎高等農林学校)、宮崎師範学校、宮崎青年師範学校を統合して、新制大学として発足した。

学芸(1966年、教育学部に、1999年、教育文化学部に、2016年、教育学部に改称)、工学、農学の3学部からなる。

2003年、宮崎医科大学と統合し、医学部を設置。

2016年、地域資源創成学部を設置し、して5学部体制となった。

1967年、大学院を設置。

宮崎県宮崎市学園木花台西にある。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

九州の国立大学について、ここまで詳しく知らなかったので、勉強になりました。

鹿児島大学水産学部があるのが、とても魅力的だと思いました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

明治の三筆って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、明治の三筆について紹介したいと思います!

 

明治の三筆に選ばれたのは、

日下部鳴鶴(くさかべめいかく)

中林梧竹(なかばやしごちく)

巌谷一六(いわやいちろく)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

日下部鳴鶴

 

 

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日下部鳴鶴とは、明治、大正の書家。

旧姓田中、後、日下部家の養子となった。

名は八十八、後に東作。

字は子暘。

号は鳴鶴、東嶼、翠雨、野鶴等。

彦根藩士で明治になって太政官に奉職し、大書記官となった。

書は初め巻菱湖、貫名海屋らに、次いで1880年、来朝した清の楊守敬に学んだ。

更に1891年、中国に渡って古法を極め、謹厳で気迫に満ちた鳴鶴流を完成し、明治以降の唐様書道界に君臨した。

主要作品『草書七絶条幅』(1897年頃)、『南紀瀞渓詩』(1918年)。

 

 

 

 

 

中林梧竹

 

 

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中林梧竹とは、書家。

名は彦四郎、隆経。

字は子達、号は梧竹、剣書閣主人。

鍋島家に仕え、19歳の時に藩の留学生として江戸へ行き、山内香雪に書を学んだ。

1882年、中国に渡って北京の潘存に師事、1884年、漢や六朝の古碑の拓本を数多く携えて帰国。

東京に出て、六朝風書道の研究、流布に没頭した。

1897年、再び中国に渡り、帰国の後、気宇壮大で高雅な書風を完成。

主要作品『大篆書幅』と『良寛賛詩』(1907年)。

 

 

 

 

 

巌谷一六

 

 

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巌谷一六とは、幕末、明治の書家。

名は修、字は誠郷、号は一六。

童話作家巌谷小波の父。

水口藩(近江)に仕えた藩医の家に生まれ、初め医術を修めたが、藩儒の中村栗園に就いて漢学を学ぶ。

内閣大書記官を経て貴族院議員を務めた。

書は若くして巧妙で、1880年に中国、清の楊守敬の来朝の際には、日下部鳴鶴と教えを受け、その六朝の書風を学んだ。

書はその磊落な性格を反映し、新鮮で飄逸。

碑文や法帖が多い。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

三筆というのは、様々な時代に存在するのですね。

もしかしたら、現代にも三筆が存在するのかもしれないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!

 

 

 

三賢女って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、三賢女について紹介したいと思います!

 

三賢女に選ばれたのは、

小野小町

紫式部

清少納言

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

小野小町

 

 

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小野小町とは、平安時代前期の女流歌人

六歌仙三十六歌仙の1人。

安倍清行、小野貞樹、文屋康秀らとの交渉から承和~貞観中頃(834~868年頃)が活動期と考えられる。

その出自や身分については、小野篁や出羽郡司等と関連づけたり、更衣や采女等とする説があるが未詳。

小野氏出身の宮廷女房か。

古今集』以下の勅撰集に60首余入集、家集に『三十六人集』の1つ『小町集』があるが、確実に小野小町の歌と言える物は少ない。

哀感、諦念のこもった、不毛の愛を詠んだ歌に特色がある。

平安中期から、その歌才、容貌、老後等について様々な伝説が発生し、小町物と呼ばれる謡曲に集大成された。

 

 

 

 

 

紫式部

 

 

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紫式部とは、平安時代中期の物語作者。

源氏物語』の作者。

漢学者であった藤原為時を父として生まれ、母は藤原為信の女で早く亡くなり、父の手で育てられた。

長保1年(999年)頃、年齢の違う藤原宣孝と結婚、後冷泉院の乳母になった大弐三位賢子を産んだが、長保3年(1001年)、夫と死別。

この寡婦時代に『源氏物語』の執筆を開始したと推定される。

寛弘2年(1005年)あるいは翌寛弘3年(1006年)の年末、一条天皇中宮彰子に出仕したが、女房生活には馴染めなかったらしい。

その間の事情は『紫式部日記』に詳しい。

その点、清少納言とは対照的で、同時代の女流文学者として、和泉式部赤染衛門らと共に対比されることが多い。

40歳余りで没したと推定される。

家集『紫式部集』があり、伝記資料としても重視される。

 

 

 

 

 

清少納言

 

 

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清少納言とは、平安時代中期の女流歌人

枕草子』の作者。

歌人の家柄に生まれ、父は『後撰集』の撰者、清原元輔

橘則光藤原棟世らと結婚、橘則長、小馬命婦らを産んだと推定される。

その生涯の詳しいことは、一条天皇中宮定子に正暦4年(993年)頃、出仕してから長保2年(1000年)、定子が薨じるまでの宮廷生活を中心に知りうるだけである。

定子の寵愛を受けて、その父の関白、藤原道隆、その兄の伊周をはじめ、藤原斉信藤原行成以下の公家貴族との華やかな交際場裡に生きた。

それらを具体的に記した散文『枕草子』には、打てば響く活発な才気、宮廷文化の頂点に立つ鋭い美意識が見られる。

和泉式部紫式部と共に平安時代女流文学を代表。

晩年は落ちぶれて老い恥を晒したと『古事談』等に伝えられ、東国に流れていった時に記したという『松島日記』等があるが、全て伝説で信じられない。

家集に『清少納言集』がある。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

平安時代を代表する女性文化人ですね。

しかしながら、小野小町については、まだまだ謎が沢山残っていますね。

名前は有名ですが、記録が残っていない人物って割と多いですよね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!