こんにちは!
今日は、天草五人衆について紹介したいと思います!
天草五人衆とは、天草諸島の国人衆のことです。
天草五人衆は、小西行長の宇土城の城普請の要求に拒否し、反乱を起こしましたが、領主の小西行長が助勢に来た加藤清正と共に攻め込み、五人衆は滅亡或いは服属の運命をたどりました。
天草五人衆に選ばれたのは、
志岐鎮経(しきしげつね)
天草種元(あまくさたねもと)
大矢野種基(おおやのたねもと)
上津浦種直(こうつうらたねもと)
栖本親高(すもとちかたか)
の5人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
志岐鎮経
志岐鎮経とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
天草五人衆の一角志岐氏16代当主。
肥後国志岐城主。
志岐麟泉の名で知られる。
天草種元
天草種元とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、キリシタン。
肥後天草諸島の国人衆である天草五人衆の一氏である天草氏の分家の出身で、種元は一時、瀬戸氏とも称す。
別名は瀬戸十郎兵衛種元。
天草尚種の子・鎮尚の義兄弟であるが、尚種が種元の父或いは鎮尚の別名が久武として種元は嗣子とする異説もある。
大矢野種基
大矢野氏11代当主。
肥後国大矢野城主。
大矢野氏は肥後天草諸島の国人衆である天草五人衆の一氏。
大矢野種光(鎮通)の子として誕生。
宇土の国人・名和顕孝の娘を室とする。
剣豪・丸目長恵が一時身を寄せていたともい言われている。
上津浦種直
上津浦種直とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
上津浦氏は『本渡市史』によると大蔵氏の末裔とされ、天草諸島の国人衆「天草五人衆」の一角。
栖本親高
栖本親高とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、キリシタン。
栖本氏13代目当主。
肥後天草諸島国人衆「天草五人衆」の一角である栖本氏は菊池氏の庶流。
如何でしたか?
私自身、歴史は好きですが、1人も知りませんでした。
天草地方の歴史は中々知れていないものの、キリスト教との関係や領主との関係が複雑なので、様々な出来事が起こっているようですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!