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世界三大ロンドンパンクバンドって何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、世界三大ロンドンパンクバンドについて紹介したいと思います!

 

世界三大ロンドンパンクバンドに選ばれたのは、

ザ・クラッシュ

セックス・ピストルズ

ダムド

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

ザ・クラッシュ

 

 

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ザ・クラッシュとは、ロンドン・パンクを代表するロック・グループの1つ。

1975年3月、ミック・ジョーンズ(1953年〜、ギター)はクラッシュの前身にあたるロンドンSSを結成する。

後のロンドン・パンクの主要人物が数多く在籍したこのグループはメンバーが激しく入れ替わり、後にポール・シムノン(1955何〜、ベース)、キース・レビン(1957年〜、ギター)が参加。

やがてバンドはレコード・リリースもないまま解散するが、ジョーンズらは新たなグループ結成の為、ボーカリストを探し始める。

そこに参加したのが、1974年から101'ersを率いて活動していたジョー・ストラマー(1952〜2002、ボーカル年、ギター)であった。

ストラマーはセックス・ピストルズのライブを見て、パンク・グループへの参加を決意したと言う。

1976年の春に、ジョーンズ、シムノン、レビン、ストラマーにテリー・チャイムズ(ドラムス)を加えた5人のメンバーでクラッシュとしての活動を開始し、8月に初のライブを行う。

9月にセックス・ピストルズと共演したパンク・フェスティバルで大きな反響を呼び、グループは一躍ロンドン・パンクの中心的な存在となる。

この時期、レビンが自身のグループ、フラワーズ・オブ・ロマンスを結成する為、グループを脱退(後にレビンはセックス・ピストルズジョン・ライドンが結成するパブリック・イメージ・リミテッドのメンバーになる)、クラッシュは4人編成となる。

CBSレコードと契約したクラッシュは、1977年3月シングル「白い暴動」でデビュー。

4月にアルバム『白い暴動』を発表する。

このころチャイムズは脱退し、ニッキー・トッパー・ヒードン(1955年〜、ドラムス)が参加。

翌年11月にはセカンド・アルバム『動乱』を発表、高い評価を受ける。

1979年1月には初のアメリカ・ツアーを行い、11月に2枚組サード・アルバム『ロンドン・コーリング』を発表。

レゲエ、ダブ、ブルースを取り入れた多様な音楽性の本作はアメリカでもヒットし、パンク・ロックの商業的成功を象徴する1枚となった。

続いて3枚組の『サンディニスタ!』(1980年)をリリース。

ニカラグアのサンディニスタ社会主義政権への支持を表明し、レゲエ、ダブを全面的に展開した本作は論議を呼ぶ。

続く『コンバット・ロック』(1982年)は前作の反動からか聞きやすい洗練されたサウンドで、「ロック・ザ・カスバ」が全米8位の大ヒットとなるが、この方向性を巡ってバンド内に亀裂が生じ、ドラッグ問題を抱えていたヒードンは解雇され、1983年4月にはジョーンズが脱退。

ストラマーとシムノンは新たに3人のメンバーを迎えて『カット・ザ・クラップ』(1985年)を発表するが、評価は芳しくなく、1986年グループは解散することになった。

 

 

 

 

 

セックス・ピストルズ

 

 

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セックス・ピストルズとは、パンク・ロックを象徴するイギリスのグループ。

1975年、当時ニューヨークで勃興していたニューヨーク・パンク・シーンを目撃したマルコム・マクラーレンは、ロンドンにあった自身のファッション・ブティック「セックス」に屯していた若者が結成していたグループ、スワンカーズの解散後、新たなメンバーを追加してパンク・グループ、セックス・ピストルズを結成させる。

メンバーはジョニー・ロットン(1956年〜、ボーカル。本名ジョン・ライドン)、スティーブ・ジョーンズ(1955年〜、ギター)、グレン・マトロック(1956年〜、ベース)、ポール・クック(1956年〜、ドラムス)の4人。

1975年11月、セント・マーチン美術学校でのライブを皮切りに活動を開始したセックス・ピストルズは、挑発的な言動によってライブの度に大騒ぎを引き起こし、ライブ・ハウスから締め出しを喰らうのも屡々であった。

1976年、EMIと契約し、シングル「アナーキー・イン・ザ・UK」でデビューするが、過激な歌詞が問題となり放送禁止となる。

その為、EMIは契約破棄を通告し、バンドはごねた末巨額の違約金をせしめたあげくにEMIとの契約を破棄する。

この間、マトロックはマクラーレンと衝突しグループを首になり、代わってシド・ビシャス(1957〜1979年、ベース)が加入することになる。

1977年3月、A&Mと契約を取り付けレコーディングを開始するが、諸方面からの批判を受けて数週間後にA&Mもセックス・ピストルズとの契約を破棄。

5月にバージン・レコードとの契約が決まり、シングル「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を発表。

エリザベス女王の戴冠25周年を祝う式典にあわせて、テムズ川に浮かべた船の上でこの曲を大音量で演奏し、マクラーレンらが一時警官に拘束される騒ぎを起こす。

この曲もまた放送禁止になったが、1週間で15万枚のセールスを記録しヒットチャート1位を獲得する。

が、チャートに掲載された1位の曲名は空白のままにされた。

セックス・ピストルズは傷害事件や暴行事件を起こす等、マスメディアの非難を受けるが、マクラーレンは意に介さず、1977年10月にファースト・アルバム『勝手にしやがれ!!』をリリース、セックス・ピストルズパンク・ロックの人気は頂点に達する。

しかし1978年1月、アメリカ・ツアーを行ったが予想に反して評価を得られず、サンフランシスコで終了したツアーの直後、ロットンは脱退する。

マクラーレンは列車強盗犯でブラジルに亡命していたロナルド・ビッグズ(1929年〜)をボーカルに迎え、ニュー・セックス・ピストルズとしてシングル「ノー・ワン・イズ・イノセント/マイ・ウェイ」をリリース、また『グレート・ロックンロール・スウィンドル』(1978年)等の編集アルバムを発表するが、1979年2月にビシャスがヘロイン中毒により死亡し、セックス・ピストルズは消滅した。

セックス・ピストルズはロンドン・パンクの代表的グループであっただけに留まらず、パンク・ロック総体のイメージを決定した存在である。

彼らの音楽自体はストレートで伝統的なロックン・ロールでしか無かったが、アナーキズム的歌詞とナチスの鍵十字を同居させる混乱した政治的表象と、ぼろ着とボンデージ・スタイルを組み合わせ頭髪を逆立てた過激なファッションは、パンクの文化的アナーキズムのスタイルを定式化した。

セックス・ピストルズが投げかけた「なんでもあり、しかし過激にやれ」というメッセージは、後のロック・ミュージックや若者文化に多大な影響を及ぼし、膨大なフォロワーを生むことになった。

また、1996年に一時再結成しワールドツアーを行っている。

 

 

 

 

 

ダムド

 

 

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ダムドとは、セックス・ピストルズ、クラッシュと並び、ロンドン・パンクを代表するロック・グループの1つ。

クラッシュの前身グループ、ロンドンSSに在籍していたブライアン・ジェームズ(1961年〜、ギター)は、1976年ラット・スキャビーズ(ドラムス)と共に新たなグループを結成。

そこにデイブ・バニアン(1956年〜、ボーカル)とキャプテン・センシブル(1954年〜、ベース)が加入し、ダムドが結成される。

当時まさに発火寸前であったロンドンのパンク・ムーブメントのただ中にあった彼らは、1976年9月にセックス・ピストルズらとパンク・フェスティバルに出演、評判となる。

スティッフ・レコードと契約した彼らは、11月にシングル「ニュー・ローズ」でロンドン・パンク初のレコード・デビューを飾った。

高速で疾走するビートと叩きつけるような轟音サウンドは、続くファースト・アルバム『地獄に堕ちた野郎ども』(1977年)の全体に貫かれている。

僅か10時間で録音されたというこのアルバムは、ロンドン・パンク最初のアルバムであり、ジェームズのポップ・センスに溢れた小気味いい楽曲とパワフルなサウンドが理想的なバランスを保った傑作であった。

すぐにセカンド・アルバム『ミュージック・フォー・プレジャー』(1977年)をリリースしたが、グループの中心人物であったジェームズが1978年脱退、解散状態となる。

翌1979年、キャプテン・センシブルがギターを担当して再結集。

ベースは何人かのメンバーが入れ替わった後、ポール・グレイに落ち着く。

『マシンガン・エチケット』(1979年)、『ブラック・アルバム』(1980年)、『ストロベリーズ』(1982年)とその後リリースされたアルバムはキャプテン・センシブルが主導するダークなサウンドを特徴とするが、1984年にキャプテン・センシブルもソロに転向し、ダムドは再び解散状態に追い込まれる。

その後バニアンはメンバーを募り、ダムド名義で『ファンタスマゴリア』(1985年)等、2枚のアルバムをリリースするが、1988年にダムドはジェームズを含む初期オリジナル・メンバーで復活。

ライブ・アルバム『ファイナル・ダムネイション』(1989年)発表後もメンバー・チェンジをしながら活動を続け、『グレイブ・ディソーダー』(2001年)等をリリースしている。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

それぞのバンドのメンバーが前身グループにいたり、共演したりとかなり交流があるようですね。

パンクバンドは全く詳しくないので、少し調べてみたいと思います。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!