こんにちは!
今日は、日本三大蔵の町について紹介したいと思います!
日本三大蔵の町に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
北で山形県に接する。
1954年、喜多方町と岩月村、松山村、慶徳村、豊川村、関柴村、熊倉村、上三宮村の7村が合体して市制。
2006年、熱塩加納村、塩川町、山都町、高郷村の2町2村と合体。
古くから北方8万石と称された会津の穀倉地帯で、米、アスパラガスやトマト等の野菜、ソバの生産が多い。
その他、酒造業や味噌、醤油等の醸造業、桐材加工、漆器製造等の伝統産業、及び非鉄金属、電気をはじめとする工業が盛ん。
熊野神社長床、願成寺の来迎三尊像、中善寺の薬師如来坐像、示現寺の椿彫木彩漆笈等が国の重要文化財に指定。
市域北部は飯豊山地に属し、一部地域は磐梯朝日国立公園に属している。
「蔵とラーメンのまち」として観光客も多い。
JR磐越西線、国道 121号線、459号線が通じる。
面積 554.63㎢。
人口 4万9377(2015年)。
1922年、川越町と仙波村が合体して市制。
1939年、田面沢村、1955年、山田村、芳野村、名細村、古谷村、南古谷村、高階村、福原村、大東村、霞ヶ関村の9村を編入。
中心市街地の川越は長禄1年(1457年)、太田道真・道灌父子が築城してから城下町として発展。
江戸時代、川越街道と新河岸川の水運により江戸と結ばれ、江戸城の北の守りとして重要視され、柳沢、松平等、譜代大名が配置された。
明治以後第2次世界大戦までは、周辺の農村を背景とする城下町特有の狭い鍵形やT字形道路、蔵造りの老舗等のある落着いた商業都市であった。
1950年代半ばから宅地化と工業化が進み、東京の衛星都市へと変貌。
南西部の国道 16号線沿いに川越・狭山工業団地が造成され、川越箪笥に代表される在来工業に代わって、機械、鉄鋼、食品等の内陸型近代工業が発達。
近くの東武鉄道東上線沿線に大規模な住宅団地が建設される等、都心部への通勤者が多い。
中央を JR川越線が横断し、大宮に通じる。
しかし、現在も城下町の落着いた佇まいを良く残し、「蔵造りのまち」として観光客も多く訪れる。
平安時代の河越館跡は史跡であり、天台宗の円仁開基と言われる喜多院には重要文化財、国宝が多い。
面積 109.13㎢。
人口 35万745(2015年)。
1928年、市制。
1944年、中洲町、1950年、粒江村、1951年、菅生村、帯江村、中庄村の3村、1953年、西阿知町、福田町、連島町の3町、1956年、藤田町をそれぞれ編入。
1967年、玉島市、児島市の両市と合体。
1971年、庄村、1972年、茶屋町、2005年、船穂町と真備町を編入。
中心市街地はかつて阿知潟と呼ばれた内海の湾入部にあたるが、人工的な干拓、埋め立てによる陸化の部分が多い。
近世初頭以来、備中、讃岐等の江戸幕府直轄地を支配する代官所が置かれ、以後、周辺農村の米と綿花の集散地となり、児島湾に注ぐ倉敷川の上流端には白壁の土蔵が立ち並んだ。
1881年、岡山紡績所、1888年、倉敷紡績が創設されたのが工業化の第一歩で繊維工業都市となる。
1955年頃から臨海の水島地区に石油精製、製鉄を基幹とする臨海工業地域が形成され、岡山県南新産業都市の中心地になった。
西部の玉島は備中松山藩の外港として発展した港町で、高梁川とは高瀬通しと呼ばれる運河で連絡していた。
児島半島の南西部にある港町下津井は瀬戸内海航路の港、金刀比羅宮への渡船場として繁栄。
味野と琴浦は近世末期以来、綿と塩の集散地となり、現在は学生服、作業服の産地。
農村部ではイネ、イグサの他、モモ、ブドウ、ミカンや野菜の栽培が盛ん。
イグサを原料とする畳表と花莚の生産も盛んである。
市域内には瀬戸内海国立公園に属する鷲羽山(国指定名勝)、六口島、王子ヶ岳の他、大原美術館、民芸館、考古館、天文台等の文化施設がある。
安養寺の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、更に遍照寺の三重塔、また旧大原家住宅や大橋家住宅は全て国の重要文化財。
六口島の象岩は国の天然記念物に指定。
市域の一部は吉備史跡県立自然公園、吉備路風土記の丘県立自然公園に属する。
山陽新幹線が通り、山陽自動車道と瀬戸中央自動車道の合流点にあたる。
面積 355.63㎢。
人口 47万7118(2015年)。
如何でしたか?
川越と倉敷は蔵のイメージがありますが、喜多方はあまり知りませんでした。
当時の街並みが今でも残っているのは、歴史が見て取れるので良いですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!