こんにちは!
今日は、本朝三美人について紹介したいと思います!
本朝三美人に選ばれたのは、
衣通姫(そとおりひめ)
藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
衣通郎姫とも言う。
皇后忍坂大中姫の妹。
艶色が衣を通し照り輝いたから、こう呼ばれた。
皇后の妬みを恐れ河内に姿を隠した。
美貌で和歌に優れ、和歌山市の和歌浦にある玉津島神社に祀られる。
『古今集』序に記され、以後、長く美人の例に引かれ、多くの文学の題材となった。
『蜻蛉日記』の作者。
名は不明。
父は藤原倫寧。
19歳頃と思われる天暦8年(954年)、右大臣の師輔の子である藤原兼家と結婚。
翌年、道綱を生むが、兼家には数人の妻があり、その後、兼家の訪れが遠のき、彼女は父のもとで、子の道綱の成長を楽しみに暮らした。
道綱は後に大納言右大将となった。
自伝的に書かれた『蜻蛉日記』は天延2年(974年)で終っている。
藤原不比等の第3女。
霊亀2年(716年)、皇太子時代の聖武天皇の妃となり、後に孝謙(称徳)天皇となった阿倍皇女、基皇子を出生。
天平1年(729年)、天皇即位とともに臣下として初めて皇后位に就き、皇后宮職で写経事業を行い、同 12年の日付の写経『五月一日経』が現存する。
同2年、悲田院、施薬院を設立し、東大寺大仏、国分寺の創建にも努力した。
天平感宝1年(749年)、天皇退位後は皇后宮職を改称した紫微中台を置き、甥の藤原仲麻呂を長官として権勢を奮った。
如何でしたか?
名前は聞いたことがありますが、詳しくは知らない3人でした。
また、『蜻蛉日記』も古文では頻出の作品ですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!