こんにちは!
今日は、武田の五名臣について紹介したいと思います!
武田の五名臣とは、甲陽の五名臣とも言い、甲斐の戦国大名の武田信虎、晴信父子に仕えた武田家の直臣である5人です。
武田の五名臣に選ばれたのは、
原虎胤(はらとらたね)
小幡虎盛(おばたとらもり)
多田満頼(ただみつより)
山本勘介
の5人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
原虎胤とは、戦国時代の武将。
明応6年生まれ。
武田信虎、信玄の家臣。
日蓮宗を信じ、信玄の改宗の命に従わず、天文22年、甲斐を出て北条氏康に仕える。
翌年、甲斐に帰り、再び信玄に仕えた。
永禄7年、死去。
68歳。
小幡虎盛とは、戦国時代の武将。
小幡日浄の子。
武田信虎、信玄に仕える。
鬼虎と称される歴戦の勇士で、出陣36回、傷が41ヶ所あったと言われる。
川中島の戦い(第4次)の直前、永禄4年6月2日、病死。
一説に享年71歳と言う。
横田高松とは、戦国時代の武士。
近江源氏佐々木氏の一族という。
甲斐(山梨県)に来て、武田信虎、信玄に仕え、足軽大将となる。天文(てんぶん)19年9月信玄が村上義清に敗れた信濃(しなの)(長野県)の「戸石(といし)崩れ」で戦死した。
永禄6年、死去。
通称は三八、淡路守。
山本勘介
山本勘介とは、戦国時代の武将。
明応2年?生まれ。
武田信玄の軍師。
甲州流兵学の祖で永禄4年9月10日の川中島の決戦で戦死したとされる。
享年69歳? 、架空人物とも言われたが、信玄の書状に菅助の名があり実在視されるようになった。
『甲陽軍鑑』や講談では稀有の戦略家として描かれている。
名は晴幸。
号は道鬼斎。
通称は勘助とも書く。
如何でしたか?
山本勘助が1番有名ですかね。
他の家の家臣について調べてみても、面白いかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!