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白秋門下三羽烏って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、白秋門下三羽烏について紹介したいと思います!

 

白秋門下三羽烏に選ばれたのは、

室生犀星(むろうさいせい)

萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)

大手拓次(おおてたくじ)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

室生犀星

 

 

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室生犀星とは、詩人、小説家。

本名照道。

明治22年8月1日、金沢市裏千日町に、旧加賀藩士小畠弥左衛門吉種と女中ハルの間に生まれる。

生後間もなく赤井ハツに貰われ、その私生児として届けられた。

ハツは雨宝院の住職室生真乗の内縁の妻で、犀星は7歳のとき真乗の養嗣子(しし)となり、室生姓を名乗る。

9歳で実父が死ぬとともに実母は行方不明となる。

12歳の時、母の命により、金沢高等小学校3年で中退、裁判所の給仕となる。

上司に交わって俳句を詠み、更に詩を『新声』に投稿する。

金石(かないわ)登記所に配転された後、20歳の秋、詩人を志して職を辞す。

この間のことは後に『幼年時代』『性に眼覚める頃』(ともに1919)に書かれる。

地方新聞の記者として転々した後、上京するが、生活できずに帰郷すること2回。

1912年(大正1)秋から詩が認められ、翌年は北原白秋主宰の『朱欒(ザムボア)』に1月から5月廃刊まで毎号掲載される。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と歌う「小景異情」は5月に発表され、初期叙情詩を代表するものである。

この時、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)から手紙を貰い、以後親交を結ぶ。

これらの詩は後に『抒情小曲集』(1918)に収められた。

16年朔太郎及び山村暮鳥(ぼちょう)と共に詩誌『感情』を創刊する。

白秋は、「自然の儘で、稚い、それでも銀の柔毛(にこげ)を持つた栗の若葉のやうに単純な、感傷家(センチメンタリスト)」と讃えた。

『愛の詩集』(1918)では、求道的な口語詩も見られる。

幼年時代』以後、小説家としても認められ、ことに『あにいもうと』(1934)以後は市井鬼物と呼ばれる作品を書き、巷に真剣に生きる野性的な人間の生命を描き出した。

太平洋戦争中は『泥雀の歌』(1942)等の自伝的作品や、『つくしこひしの歌』(1939)等の王朝物を書いていた。

戦後、随筆『女ひと』(1955)が好評を博して再び活発な活動に入る。

自分と娘を描いた『杏っ子』(1957)では読売文学賞を受賞。

王朝物の『かげろふの日記遺文』(1958)では野間文芸賞を受賞した。

この間、詩も作り続け、詩集も『忘春詩集』(1922)、『鶴』(1928)、『鉄集』(1932)、『美以久佐(みいくさ)』(1942)等数多い。不幸な生い立ちの中に生きる道を求めるところから出発して、ことに晩年は、女性を見つめて深い人生を見出している。

昭和37年3月26日死去。

墓地は金沢市野田山にあり、石川近代文学館は犀星の生涯を偲ぶ展示をしている。

 

 

 

 

 

萩原朔太郎

 

 

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萩原朔太郎とは、詩人。

明治19年11月1日、群馬県前橋市生まれ。

父は医師。

前橋中学3年の頃から、短歌を主とする文芸活動を始め、校友会誌、『文庫』『明星』等に投稿した。

また、絵を描き、写真に興味を持った。

1907年(明治40)熊本の第五高等学校英文科に入学したが、1年で退学、08年岡山の六高独法科に入り直した。

しかし、ここも1年生のまま10年5月までいて、修学の見込みがないので辞めた。

この間、『昴(スバル)』に短歌を投じた。

六高中退後は、郷里前橋と東京の間を往来し、マンドリンを習ったり、音楽学校を志して入学試験の準備をしたりした。

1913年(大正2)北原白秋(はくしゅう)主宰の『朱欒(ザンボア)』に『みちゆき』他5編の詩が掲載されて詩壇にデビュー。

同じ号に室生犀星(むろうさいせい)の『小景異情』を見出し、生涯に渡る親交を結んだ。

翌14年山村暮鳥(ぼちょう)を加えた3人で「主として詩、宗教、音楽の研究を目的とする」人魚詩社を創立、15年、機関誌『卓上噴水』を3号まで出した。

この頃、「おれはなんのために生きてゐるのか」という人生問題に深く悩み、翌年にかけてほとんど1年間作品を発表しなかった。

この問題は結局、ドストエフスキーの作品を通してキリスト教の愛に触れることで、一応の解決をみた。そこで、16年犀星と詩誌『感情』を創刊(1919年11月まで)、知的詩風に堕した詩壇に、感情の盛んに流露した詩をもって新風を送った。

1917年処女詩集『月に吠える』を出して一躍詩壇の寵児となった。

18年に入ると再び詩の発表が途絶え、21年の初めに及ぶ。

この期間は思索に専心し、所産としてアフォリズム、『詩の原理』に発展する詩論があった。

19年に上田稲子と結婚。

21年、詩の発表を復活し、『月に吠える』以後の詩を編んで23年に『青猫』を刊行した。

25年妻子を伴って上京。

上京に先立って文語体の詩『郷土望景詩』を試みた。

29年(昭和4)稲子と離婚。

30年父を失い、人生の辛苦をしみじみと味わう。34年刊行の『氷島』はこうした生活を背景に持つ。

氷島』以後には殆ど詩作は無く、アフォリズムや文化評論を専ら書いた。

家庭的には恵まれなかったが、『四季』に集まった若い優れた詩人たちに囲まれ、詩人としては幸せな晩年であった。

昭和17年5月11日自宅で没した。

朔太郎の詩業の真髄は、自ら「愛誦詩篇(あいしょうしへん)に就て」で「我々は一意専心我々自身の実感を我々自身のリズムに盛りあぐる」と言っているが、この主張を実践できたところにあると言えよう。

小説家萩原葉子(ようこ)(1920―2005)は長女。

前橋市萩原朔太郎記念館がある。

 

 

 

 

 

大手拓次

 

 

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大手拓次とは、詩人。

初期の筆名は吉川惣一郎(そういちろう)。

明治20年11月3日(戸籍上では12月3日)群馬県生まれ。

幼時両親に死別し、磯部温泉の開拓者である祖父万平のもとに成長した。

早稲田大学英文科卒業。

ライオン歯磨広告部に勤務。

生来、羞恥心が強く、中学時代からの左耳難聴も手伝って孤独癖が強かった。

46歳の生涯を独身で通した。

北原白秋に認められ、『朱欒(ザンボア)』『地上巡礼』『ARS(アルス)』等に詩を発表、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、室生犀星(むろうさいせい)と共に「白秋旗下の三羽烏」と称されたが、詩壇的交友は殆ど無く、詩もまた極度に内面的で、妖しい幻想的な美を欲しいままにしている。

日本の古典に親しみ、早くからフランス象徴詩の影響を深く受けた彼の完成された口語詩は、音楽的な美しさに富み、朔太郎に強い影響を与えている。

三富朽葉(みとみくちは)と並んで日本における新しい象徴詩は彼に始まると言って良い。

ボードレール他の優れた訳詩も多い。

昭和9年4月18日、肺結核で死去。

死後、詩集『藍色の蟇(ひき)』(1936)、『蛇の花嫁』(1940)他が刊行された。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

3人とも北原白秋認められた詩人なのですね。

私は、萩原朔太郎しか知らなかったので、詩人についても勉強していきたいと思います!

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!