いつか役に立つかもしれないムダ知識

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中年御三家って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、中年御三家について紹介したいと思います!

 

中年御三家に選ばれたのは、

永六輔(えいろくすけ)

小沢昭一

野坂昭如(のさかあきゆき)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

永六輔

 

 

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永六輔とは、放送作家、作詞家、タレント、随筆家。

本名永孝雄。

東京府東京市浅草区(今日の東京都台東区元浅草)の浄土真宗の寺、最尊寺に生まれた。

1944年、学童疎開で長野県の国民学校に転校。

当地で終戦を迎え、1947年、東京に戻り旧制早稲田中学校編入

この頃から日本放送協会NHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にコントを投稿。

1952年、早稲田大学第二文学部に入学するが、『日曜娯楽版』の発案者でもあった作詞・作曲家の三木鶏郎にスカウトされ、制作者集団「冗談工房」に参加、大学を中途退学して本格的に放送作家の道を歩み始めた。

1961年からは5年間に渡って放送されたNHKの人気バラエティー番組『夢であいましょう』の作・構成を担当。

また同番組では毎月1曲、永六輔作詞、中村八大作曲による「今月の歌」が作られ、ここから数多くのヒット曲が生まれた。

中でも1961年に坂本九が歌って大ヒットした『上を向いて歩こう』は、アメリカ合衆国では『SUKIYAKI』のタイトルでリリースされ、3週連続全米ヒットチャート1位を獲得。

また1962年5月の歌としてジェリー藤尾が歌った『遠くへ行きたい』は讀賣テレビ放送が制作する同名の紀行番組のテーマ曲として使われ、1963年7月の梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』は日本レコード大賞を受賞した。

同番組が始まる前の1959年に水原弘が歌い第1回日本レコード大賞に輝いた『黒い花びら』も中村の依頼で作詞した曲である。

夢であいましょう』が終了すると活動の場をラジオに移し、1967年から東京放送 TBSのラジオ番組『永六輔の誰かとどこかで』にパーソナリティとして出演。

同番組は2013年まで続く長寿番組となった。

文筆家としても活躍し、100冊を超える著書があるが、旅先等で知り合った人々の生死に関する言葉を拾い集めたエッセー集『大往生』(1994年)は累計242万部の大ベストセラーとなった。

江戸文化に精通し、和服や尺貫法の復権運動でも知られた。

 

 

 

 

 

小沢昭一

 

 

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小沢昭一とは、俳優、芸能研究家。

早稲田大学仏文科卒業。

在学中から北村和夫らと演劇活動を始め、1950年、俳優座養成所に2期生として入所。

1951年、俳優座公演の岸田国士作『椎茸と雄弁』で初舞台を踏む。

1953年、同養成所卒業と同時に渡辺美佐子らと劇団新人会を結成、1961年には早野寿郎らと劇団俳優小劇場を結成した。

また、この頃から民衆芸能への関心を高め、1969年、著書『私は河原乞食・考』を発表、1970年から放浪芸の採集を開始して『日本の放浪芸』レコード三部作(1971~1975年)として纏めた。

この間1975年に芸能座を結成、翌1976年、永六輔作『清水次郎長伝・伝』で旗揚げ。

並行して雑誌『季刊・芸能東西』10冊を編集・刊行した。

1979年12月、芸能座を解散、以後小沢1人のしゃぼん玉座で活動を続けた。

その他映画にも多数出演、ことに今村昌平作品には欠かせない存在として知られ、代表作に『にあんちゃん』(1959年)等がある。

1994年、紫綬褒章、2001年、勲四等旭日小綬章、2007年、菊池寛賞を授与された。

 

 

 

 

 

野坂昭如

 

 

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野坂昭如とは、小説家。

生母との死別後、神戸の親戚に養子として引き取られた。

第2次世界大戦末期、1945年6月の大空襲で養父母を失い、妹と共に戦災孤児となった。

妹が栄養失調で衰弱死した後、大阪、神戸、東京で放浪生活を送り、その間、食べ物欲しさから窃盗を働き少年院に収容された。

思春期におけるこれらの体験が「焼け跡闇市派」としての原点となり、後の直木賞受賞作である『火垂るの墓』(1967年)と『アメリカひじき』(1967年)、及び『一九四五・夏・神戸』(1976年)に繋がる。

1950年、早稲田大学仏文科に入学したが、バーテンダー、闇屋等、様々なアルバイトにのめり込んで中途退学。

1955年、三木鶏郎の冗談工房に入社、これを契機にコント、コマーシャルソング、テレビ台本等の分野で頭角を現し、1963年には童謡『おもちゃのチャチャチャ』で日本レコード大賞作詞賞を受賞。

また「黒メガネのプレイボーイ」姿でマスコミを賑わした。

小説家としての第1作『エロ事師たち』(1966年)は、戦後の性風俗の氾濫と退廃の中における人間の極限の姿を、独特な長い話文体で描き切った作品で、三島由紀夫吉行淳之介らの絶賛を浴びた。

その後も『本朝淫学事始』(1971年)等、性を切り口にしながら社会や教育によって真の人間性が損なわれてゆくことへの危惧を訴えた。

一方で歌手、キックボクサー等としても活躍。

1972年、雑誌『面白半分』に掲載された『四畳半襖の下張』に関わる裁判で被告席に立った。

1983年には参議院議員通常選挙に立候補し当選、更にロッキード事件に際して田中角栄金権政治を批判し、同1983年、田中の地元から衆議院議員総選挙に立候補し落選した。

2002年、泉鏡花賞受賞。

他の著作に『とむらい師たち』(1967年)、『骨我身峠死人葛』(1969年)、『死の器』(1973年)、『赫奕たる逆光――私説・三島由紀夫』(1987年)、『同心円』(1996年、吉川英治文学賞)等。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

全員早稲田大学に入学しているようですね。

私の中では、永六輔と言えば、やはり『上を向いて歩こう』です。

また、『火垂るの墓』は、小学校低学年ながら泣きそうになったのを覚えています。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!