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日本三大天神って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本三大天神について紹介したいと思います!

 

日本三大天神に選ばれたのは、

太宰府天満宮(福岡県太宰府市

北野天満宮京都府京都市

防府天満宮山口県防府市

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

太宰府天満宮

 

 

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太宰府天満宮とは、福岡県太宰府市太宰府に鎮座。

菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)る。

文章博士(もんじょうはかせ)、右大臣兼右近衛(うこんえ)大将の任にあった道真は、901年(昌泰4)藤原時平(ときひら)らの讒言(ざんげん)により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、任地にいたが、903年(延喜3)その地の榎(えのき)寺で亡くなった。

そこで、その遺骸(いがい)を四堂のあたりに葬るべく牛車で進んだところ、安楽寺境内で止まり動くことができず、ためにそこを墓所と定め遺骸を葬ったという。

すなわち、現本殿のある地で、905年随臣の味酒安行(うまざけやすゆき)がそこに廟社(びょうしゃ)を造営した。

それより、都では凶事が打ち続き、人々はそれを道真の怨霊(おんりょう)によるものと恐れ、919年藤原仲平(なかひら)が勅を受けて下向(げこう)、社殿を造営し、あと道真は923年(延長1)本官右大臣に復され、正二位を贈られた。

993年(正暦4)正一位左大臣、さらに太政(だいじょう)大臣を贈られ、天満大自在天神と崇(あが)められた。

以後、道真の亡くなった2月25日に勅祭が行われる例となり、鎌倉時代に文学の神として尊敬されるほか、正直を守る神、慈悲の神とされ、絵巻物の流行とともに天神信仰は広まり、室町時代には禅僧が信仰するとともに渡唐(ととう)天神信仰を生み、江戸時代には寺子屋教育の発達で、さらに広く信仰されることとなった。

1871年(明治4)国幣小社、95年官幣中社となる。

例祭9月25日、ほかに1月7日夜の追儺(ついな)(鬼すべ)、鷽替(うそか)えなど特殊神事も多く、社宝に国宝『翰苑(かんえん)』巻第30ほか文書類も多い。

 

 

 

 

 

北野天満宮

 

 

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北野天満宮とは、京都市上京(かみぎょう)区馬喰町(ばくろちょう)に鎮座。

祭神は中殿に主神菅原道真(すがわらのみちざね)朝臣(あそん)、東間(ひがしのま)に中将殿(道真の長子高視(たかみ))、西間に吉祥女(きちじょうにょ)(道真夫人)を祀(まつ)る。

太宰府(だざいふ)天満宮とともに全国天満宮1万余の宗祠(そうし)で、北野天神、天満天神、火雷(からい)天神、天満宮天神など種々の称号がある。

二十二社に列する。

道真は左遷されて大宰府で903年(延喜3)に没したが、その後京都に異変が多くおこり、これを道真の祟(たた)りとおそれ、天神信仰を生じた。

942年(天慶5)7月13日、西京(にしのきょう)七条に住む巫女(みか)多治比奇子(文子)(たじひのあやこ)は道真の託宣を受け、邸内に小祠(しょうし)を構えて神霊を奉祀(ほうし)、947年(天暦1)山城(やましろ)国葛野(かどの)郡上林(かんつはやし)郷なる北野の現在地に移祭した。

同じとき近江(おうみ)(滋賀県)比良社(ひらしゃ)禰宜(ねぎ)良種(よしたね)の子太郎丸に神託があり、北野朝日寺の僧侶(そうりょ)最鎮(さいちん)もこの移祭に協力して社殿を設けたのが北野天満宮の創祀である。

この地には以前から北野天神とよばれていた雷神の祠堂があり、現在も本殿の背後に摂社北野天神社として祀られている。

959年(天徳3)には九条右大臣藤原師輔(もろすけ)が三間三面庇(ひさし)檜皮葺(ひわだぶ)きの殿舎を造営、菅公(かんこう)命日の2月25日に鎮霊するとともに宝物を献じ、祭文を捧(ささ)げて子孫繁栄を祈請、九条家の隆盛は天神の加護によるといわれた。

社観を一新すると、孔子の聖廟(せいびょう)に倣って北野聖廟とよばれ、菅公の霊は「文道の祖、風月の本主」と崇(あが)められた。

現在も学問の神として受験成功祈願の参詣(さんけい)者が多い。

987年(永延1)一条(いちじょう)天皇の皇太后宮の典侍(てんじ)に神教があって神殿を改造、同年8月5日、菅原氏の者を奉幣使にたてて北野祭(まつり)を始行し、以後、官幣社となった。

993年(正暦4)には道真に左大臣正一位、さらに太政(だいじょう)大臣が追贈された。

1004年(寛弘1)10月には一条天皇により初度の北野行幸があり、以後歴朝の行幸が続けられた。

社務別当(べっとう)職はこの年菅原氏出身の比叡山(ひえいざん)西塔東尾坊の僧是算(ぜさん)が任ぜられ、のち曼殊院(まんしゅいん)と称し、明治維新まで代々相承される。

豊臣(とよとみ)秀吉の尊崇はとくに厚く、1587年(天正15)10月北野大茶湯を催し、93年(文禄2)5月には征韓のことを祈請したという。

現社殿は秀頼(ひでより)の寄進になるもので、1607年(慶長12)片桐且元(かたぎりかつもと)を普請奉行(ふしんぶぎょう)として本社をはじめ末社に至るまで大規模に造営された。

1779年(安永8)塙保己一(はなわほきいち)が『群書類従』1000巻の完成を祈願したことは有名。

官幣中社

8月4日の例祭(北野祭)のほか、菅公命日2月25日の梅花祭(ばいかさい)、10月1~5日の瑞饋祭(ずいきまつり)など神事は数多い。

八棟造(やつむねづくり)の本殿・拝殿(国宝)は権現造(ごんげんづくり)の最古のもので、豊国(とよくに)廟や日光東照宮はこれを模して造営された。

中門(扁額(へんがく)「天満宮」は後西院(ごさいいん)天皇の宸筆(しんぴつ))、回廊、平唐門(ひらからもん)、透塀(すきべい)、東門はいずれも国の重要文化財。社宝に『北野天神縁起』(国宝)のほか、数種の縁起や太刀(たち)、絵画、経巻など国の重要文化財を蔵する。

 

 

 

 

 

防府天満宮

 

 

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防府天満宮とは、山口県防府市松崎町に鎮座。

菅原道真(すがわらのみちざね)と、その祖天穂日命(あめのほひのみこと)・武夷鳥(たけひなとり)命・野見宿禰(のみのすくね)を祀(まつ)る。

901年(延喜1)菅原道真は左遷され大宰府(だざいふ)へ向かう途中、当地勝間の浦に着船、時の周防(すおう)国国司土師信貞(はじのぶさだ)は同族であったので、これを迎え1日松崎の地に招いたことで、道真の薨後(こうご)すぐこの地に神廟(しんびょう)を建てたことに始まる。

古くは松崎天神と称した。

例祭12月5日、ほかに旧10月15日の御神幸祭(裸坊(はだかぼう)祭)、2月節分日の牛替(うしかえ)神事など特殊神事が多く、紙本着色『松崎天神縁起』六巻(国の重要文化財)のほか、宝物も多い。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

太宰府天満宮北野天満宮は知っていましたが、防府天満宮は初めて知りました。

神社についても勉強したいと思います!

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!