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日本三大水攻めって何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本三大水攻めについて紹介したいと思います!

 

日本三大水攻めに選ばれたのは、

備中高松城

紀伊太田城

武蔵忍城

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

備中高松城

 

 

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備中高松城とは、岡山県岡山市北区高松(備中高松)にあった平城(ひらじろ)。

石垣ではなく土塁で築城、周囲の低湿地帯が天然の堀の役割を果たした。

戦国時代末期、備中松山城高梁市)の城主三村氏に命じられた、配下の石川久式(いしかわひさのり)が築いた。

三村氏と石川氏が滅亡後、久式の女婿である清水宗治(しみずむねはる)が城主となった。

1582年(天正10)4月、中国征伐に乗り出した織田信長の先鋒羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、3万の軍勢を率いて毛利氏の勢力下にあった備中に侵攻、高松城を包囲した。

これに対し、宗治は5000の兵とともに籠城して抵抗。

秀吉勢は、周囲の沼地のために攻めあぐんだ。

秀吉は軍師の黒田官兵衛の献策を受け入れ、足守川(あしもりがわ)をせき止め、水を城域に流し込む作戦を計画。

この土木工事に周辺の農民を高額の報酬で動員し、11日で完工したという。

おりから梅雨時の雨も加わり、この策は成功し、城内は水浸しとなって城は孤立、宗治は兵の助命とひきかえに自刃して果てた。

この戦いは「高松城の水攻め」として世に知られている。

江戸時代初期、高松城はしばらく陣屋として使われていたが、やがて廃城となった。

現在、城址公園として整備され、本丸跡と水攻め堤防の一部は国の史跡に指定されている。

また、清水宗治首塚と資料館がある。

JR吉備線備中高松駅から徒歩10分。

 

 

 

 

 

紀伊太田城

 

 

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紀伊太田城とは、和歌山県和歌山市太田にあった平城(ひらじろ)。

戦国時代の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による「太田城水攻(みずぜ)め」で有名。

紀伊太田城は延徳年間(1489~92年)に紀俊連(きのとしつら)が築城し、天正年間(1573~92年)に太田源太夫(おおたげんだゆう)によって修築されたとされ、太田党の本城であった。

1585年(天正13)、秀吉の紀伊侵攻に抵抗した太田党と根来・雑賀衆の残党ら合わせて約5000人が太田城に立てこもった。

秀吉軍は紀伊太田城を取り囲む総延長5~6kmにも及ぶ堤防を築き、水攻めを行った。

籠城1ヵ月後、城主太田左近宗正ら太田一族は自刃し、開城した。

現在、太田城水攻めの堤防跡が一部残っている。

城内の遺構は残っていないが、現在の来迎(らいごう)寺境内が本丸跡と伝えられ、城跡碑が建っている。

JR紀勢本線和歌山駅または南海電鉄和歌山市駅から徒歩5分。

 

 

 

 

 

武蔵忍城

 

 

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武蔵忍城とは、埼玉県行田市にあった中世の平城(ひらじろ)で、江戸時代には忍藩の藩庁が置かれた。

同県指定旧跡。

関東七名城の1つ。

1478年(文明10)ごろに、地元の豪族の成田正等・顕泰父子が扇谷上杉氏に属していた忍一族を滅ぼして築城したとされる。

以後、成田氏の居城となった。

湿地帯を利用してつくられた平城で、付近は沼の中に島のような陸地が点在していたが、この沼をそのまま生かすかたちで城が築かれた。

城主の成田氏は、小田原の北条氏の勢力が武蔵国に及んでくるとこれに反発し、北条氏康は1553年(天文22)に同城を攻めたが攻略に失敗している。

成田氏は1559年(永禄2)に関東に遠征した越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に従った。

しかし、1561年(永禄4)の小田原城攻めの後に鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた上杉謙信関東管領の就任式で、当時の城主の成田長泰が謙信から無礼を咎められたために上杉氏と離反し、北条氏に属した。

1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)の際、城主の成田氏長は小田原城(神奈川県小田原市)に篭城したが、家臣や付近の農民が忍城に立てこもり、石田三成を大将とする豊臣方と戦った。

三成は同城の守りが固いことから、長さ28kmにおよぶ堤を建設して水攻めを行ったが落城せず、小田原城の落城後に開城した。

同城には忍の浮き城という別称があるが、これはこの戦いを由来とする。

徳川家康が関東に入部すると、同城には家康四男の松平忠吉が入城し、これ以降、明治の廃藩置県まで忍藩の藩庁となった。

廃藩置県にともない、同城二の丸に忍県の県庁が置かれたが、その後、廃城となり、城内にあった構造物のほとんどは破壊された。

現在、城跡は忍公園になっており、同城の周囲にあった土塁の一部が残っている。

戦後、本丸跡に行田市本丸球場が建設されたが、現在は球場は移転し、球場跡には行田市郷土博物館が建っている。

同博物館の施設の1つとして、江戸時代の御三階櫓(ごさんがいやぐら)(内部は展示館になっている)が復元されたが、位置や櫓の形状は史実と異なる。

また、近郊の同県加須市の総願寺にかつての北谷門が移築され現存している。

また、郷土博物館の南側に藩校進修館の門が、また同博物館の駐車場脇には、かつてどこにあった門かは明らかではないが同城の城門が移築され現存している。

JR高崎線行田駅吹上駅、熊谷駅からバスで忍城下車。

または秩父鉄道行田市駅から徒歩約15分。

忍の浮き城、亀城とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

備中高松城と武蔵忍城は知っていましたが、紀伊太田城は初めて知りました。

また、武蔵忍城の水攻めは、『のぼうの城』という映画で描かれているので、是非観てみて下さい!

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!