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江戸三大改革って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、江戸三大改革について紹介したいと思います!

 

江戸三大改革に選ばれたのは、

享保の改革

寛政の改革

天保の改革

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

享保の改革

 

 

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享保の改革とは、江戸時代、8代将軍徳川吉宗が幕政建直しのために行った改革。

幕府三大改革のなかで最初に行われたことから、のちの改革の目標となった。

吉宗の将軍襲職の享保1 (1716) 年に始まり、その在職中に行われた。

江戸時代中期になると、封建制の矛盾が次々と現れ、また幕府制度の矛盾も表面化して、幕藩体制の危機は深刻化していた。

そこで吉宗は、農村対策として定免制を施行して年貢収納の強化をはかり、生産量を増すために新田開発やサツマイモ (甘藷) の栽培を奨励して農民の生活の安定をはかろうとした。

都市の商業資本に対しては株仲間の公認や通貨の統一に努め、おもにその統制に力を注いだ。

高利貸資本の圧迫により貧窮の状態にあった旗本や御家人のために上米 (あげまい) の制や相対済 (あいたいすまし) 令を出すことによって救済につとめ、一方幕府内部において人材登用のため足高 (たしだか) の制を定めて幕政運営の硬直化を防ごうとした。

その他法典の編纂に努めた。

『公事方御定書』の制定や『御触書寛保集成』の編集はその成果である。

吉宗は目安箱を設置して広く庶民の意見を聞き、前代までの文治政治による装飾化を嫌って実用主義的な立場で政治を行った。

その傾向は文化面においても現れた。

医学や洋学の奨励はその現れである。

しかしこの改革も享保の飢饉と米価下落のために十分な成果をみず、幕府の安定は一時的なものに終わった。

 

 

 

 

 

寛政の改革

 

 

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寛政の改革とは、江戸幕府が行った享保の改革天保の改革と並ぶ改革。

老中松平定信が、天明7 (1787) 年から寛政5 (93) 年までの間に、享保の改革を理想として行った。

田沼意次の時代に幕政は腐敗の極に達し、商業、高利貸資本が農村に進出して農民の階層分化が進み、そのうえ天明の飢饉の打撃によって農村の疲弊は進んだ。

この間一揆や打毀 (うちこわし) が起こり、社会的不安が増大して、幕政も危機の様相を呈してきた。

そこで、定信は松平信明、松平乗完、本多忠籌、堀田正敦らを老中、若年寄に任じて政治改革に乗出した。

財政、経済面においては、徹底的な緊縮財政を行って倹約を励行し、大奥の費用も3分の1に切りつめた。

また米の買占めや酒造の制限、米相場の公定、株仲間の利益独占の制限を行った。

農村の再建策としては年貢減免で譲歩する一方、都市に入ってきた農民を出身郷村に帰す人返しや出稼ぎ制限で、農民の土地緊縛の強化をはかり、さらに幕府領の代官を通じて支配の再編を行った。

飢饉に対する予防策としての備荒貯蓄のため、大名、旗本に1万石につき 50石の囲籾を命じている。

都市においては、江戸の町入用の節約額の7分を積立てる七分金制 (七分金積立 ) の実施、江戸の浮浪人を人足寄場に収容して更生の道を開くほか、旗本、御家人の財政難を救済するために棄捐令 (きえんれい) を出した。

一方、風俗の取締りも活発に行われ、寛政2年、出版統制令を出して山東京伝林子平を処罰した。

思想面でも寛政異学の禁という学問の統制が行われた。

寛政の改革は、大奥の策謀による定信自身の失脚によって失敗したが、実質的にも予期したほどの効果をあげえず、時代に逆行した政策は多くの人の不満を招いた。

なお諸藩についても、同じ頃藩政改革があった場合、同じ名で呼ぶことがあるが、内容や結果はさまざまである。

 

 

 

 

 

天保の改革

 

 

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天保の改革とは、江戸時代後期、天保年間 (1830~44) に行われた幕府、諸藩の政治改革。

幕藩体制はこの時期に深刻な動揺をみせ、綱紀紊乱、財政の窮乏、武士の困窮、農村・都市生活の退廃など、多方面の政策転換を迫られていた。

幕府は老中水野忠邦を首班として天保 12 (41) 年5月から改革に着手。

享保寛政の改革を目標とし、風俗矯正、質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い、農村人口を維持するため「人返し」政策をとった。

また忠邦は株仲間を解散して物価の引下げをはかり、印旛沼 (いんばぬま) 開発 (印旛沼干拓 ) などにも着手したが、大名や旗本の抵抗を受けた上知令によって失脚した。

一方、西南雄藩の藩政改革は財政的な面で多くが成功し、明治維新の原動力となった。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

名前は、知っている方が多かったのではないでしょうか?

しかし、実際にどのような改革が行われ、結果どうなったかまでは、あまり知られていないと思います。

今考えてみると、時代の流れに逆行した政策も多くあったように感じます。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!