こんにちは!
今日は、世界三大海戦について紹介したいと思います!
世界三大海戦に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
トラファルガーの海戦とは、1805年10月21日、イベリア半島南西部のトラファルガーTrafalgar岬の沖で、ネルソンのイギリス艦隊がビルヌーブPierre Charles Jean, Baptiste Sylvestre de Villeneuve(1763―1806)提督指揮のフランス・スペイン連合艦隊を撃破した海戦。
スペインの港カディスに停泊中のビルヌーブの艦隊がナポリに出撃することを察知したネルソンは、カディス近くのトラファルガー岬沖で待ち受けた。
戦艦33隻からなるビルヌーブの艦隊はイギリス艦隊を認めると北に針路を変え、これに対してネルソンは27隻のイギリス艦隊を、自らの直率する15隻と副司令官コリングウッドCuthbert Collingwood(1748―1810)の指揮する12隻の二隊に分け、旗艦ビクトリー号に「イギリスは各員が義務を果たすことを期待する」との信号を掲げて西から接敵し、敵艦隊を分断し攻撃。
その結果、沈没艦0、戦死約1600人に対し、敵艦の撃沈5、捕獲17、戦死約8000人という大勝利を得たが、ネルソン自身は艦上で戦死した。
この海戦により、ナポレオンはイギリス上陸を断念した。
日本海海戦とは、1905年(明治38)5月27日から翌日にかけて東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の指揮する連合艦隊が、ロジェストベンスキーの率いるバルチック艦隊を対馬(つしま)沖で迎撃し、日露戦争における日本の勝利を決定した海戦。
ロシアは開戦後いち早くバルチック艦隊の極東増援を決定、同艦隊は1904年10月リバウ軍港を出発した。
それが旅順(りょじゅん)艦隊と合流すれば、満州の日本軍は補給路を脅かされて危機に陥るため、日本軍はバルチック艦隊が来航する以前の旅順要塞(ようさい)攻略が必要となり、多数の死傷者を出す悲惨な強襲の結果、ようやく05年1月攻略、旅順艦隊を全滅した。
そのため遠征の意義は大半失われたが、戦艦8、装甲巡洋艦3を主力とする38隻15万t余りのロシア艦隊はウラジオストクに向かった。
ロシア艦隊の対馬海峡通過を予想して鎮海(ちんかい)湾に待機していた戦艦4、装甲巡洋艦8を主力とする21万t強の連合艦隊は、旗艦三笠(みかさ)の檣頭(しょうとう)に「皇国ノ興廃此(こ)ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」という信号旗を掲げ、ロシア艦隊の進路を圧する丁字戦法により、日没までに戦艦四隻を撃沈して勝敗を決し、翌28日には残存艦隊の主力が降伏した。
ウラジオストク入港の目的を果たしたのは巡洋艦1、駆逐艦2、運送船1にすぎず、日本艦隊の損害は水雷艇三で、海戦史上もっとも完全な勝利であった。
日本の勝因には速力の優位、砲撃の熟練、下瀬(しもせ)火薬の威力があげられている。日本はこの海戦を記念して5月27日を海軍記念日とした。
レパントの海戦とは、1571年、ギリシアのコリント湾レパントLepanto(現在のナウパクトス)岬沖で、オスマン帝国と神聖同盟(リーガ・サンタLiga Santa)諸国の艦隊の間に行われた海戦。
オスマン帝国皇帝セリム2世は、オランダ独立戦争、スペインのイスラム教徒反乱、フランス宗教戦争などのヨーロッパ情勢にかんがみ、西方への進出を企て対イタリア戦争を決意、1570年キプロス島を占領した。
このため、東インド航路の発展によって衰色をみせていたイタリア諸都市は、大いに脅威を感じて教皇ピウス5世に訴え、教皇はスペインとイタリア諸邦に呼びかけて、この年神聖同盟がなった。
同盟の中心、スペインのフェリペ2世は、ドン・フアン・デ・アウストリアDon Juan de Austria(1547―78)を司令官として艦隊を編成、トルコ艦隊と戦わせた。
作家セルバンテスも参加したこの海戦は、神聖同盟側の有利のうちに終わった。
スペインの黄金時代を象徴する一戦であったが、また奴隷漕手(そうしゅ)を主力とする大海戦の最後でもあった。
如何でしたか?
日本史と世界史を勉強した方は、ご存知ではないでしょうか?
特に、日本海海戦は、司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』でも取り上げられており、秋山真之の活躍が描かれております。
これを上回るような海戦は、2度と起きて欲しくないものです。
最後までお読み頂き有難う御座いました!