こんにちは!
今日は、日本三大俳人について紹介したいと思います!
俳人とは、俳句を作る人や俳句を巧みにつくる人のことを言います。
日本三大俳人に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
本名、宗房。
幼名、金作。
通称、甚七郎または忠右衛門。
別号、桃青、釣月軒、泊船堂、夭々軒、芭蕉洞、風羅坊。
一説に伊賀国柘植 (つげ) の出生という。
士分待遇の農家の出身で、伊賀上野の藤堂良忠 (蝉吟) に仕え、良忠とともに北村季吟に俳諧を学んだ。
寛文6 (1666) 年の良忠没後致仕し、一時京都に遊学したともいう。
同 12年郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、江戸に下った。
延宝期は談林俳諧に傾倒したが、杉風、其角、嵐雪などの門人もでき宗匠として独立。
延宝8 (80) 年深川の芭蕉庵に隠棲し、そこで従来の談林の俳風をこえて、蕉風俳諧を創始。
また各地を旅行して『野ざらし紀行』をはじめ『更科紀行』 (88) 、『奥の細道』など多くの名句と紀行文を残した。
句集は『俳諧七部集』に収められる。
そのほか俳文『幻住庵記』 (90) 、日記『嵯峨日記』 (91) などがある。
本姓、谷口。
別号、宰町、宰鳥、落日庵、紫狐庵、夜半翁、夜半亭2世。
画号、長庚、春星、東成、謝寅 (しゃいん) など。
豊かな農家に生れたが、両親と家産を失い、17~18歳頃江戸に下り、絵画、俳諧を志した。
俳諧は内田沾山、夜半亭早野巴人に師事。
寛保2 (1742) 年巴人没後、下総結城の友人砂岡雁宕 (いさおかがんとう) 方に身を寄せ、以後 10年間常陸、下総を中心に放浪生活を続け、画俳の基礎を固めた。
延享1 (44) 年 29歳のとき蕪村と改号、翌年和詩『北寿老仙をいたむ』を書いた。
宝暦1 (51) 年京都へ移住、以後約 10年間、画業を主とし画名大いにあがった。
明和7 (70) 年夜半亭2世を継ぎ、京都俳壇の中心人物となり、池大雅と合作の『十便十宜』を描き、画俳ともに大成期を迎えた。
句日記『新花摘』、連句『桃李 (ももすもも) 』 (80) 、追悼集『から桧葉』などがある。
高い美意識や教養に基づく感性的、ロマン的作風で、中興期俳壇を代表する俳人。
通称、弥太郎、名、信之。
農民の子。
3歳で母を失い、8歳のとき迎えた継母と不和で、15歳の頃江戸へ奉公に出て、いつしか俳諧をたしなみ、竹阿、素丸に師事。
享和1 (1801) 年、父の没後継母子と遺産を争い、文化 10 (13) 年帰郷し、遺産を2分することで解決する。
52歳で妻帯、子をもうけたが妻子ともに死去、後妻を迎えたが離別、3度目の妻を迎えるなど、家庭的に恵まれず、文政 10 (27) 年類焼の厄にあい、土蔵に起臥するうち中風を発して死亡。
数奇な生涯、強靭な農民的性格、率直、飄逸な性格が、作品に独特の人間臭さを与えている。
編著『旅拾遺』 (1795) 、『父の終焉日記』 (1801) 、『三韓人』 (14) 、『七番日記』 (10~18) 、『おらが春』など。
如何でしたか?
どの人物も比較的有名ですね。
特に松尾芭蕉と小林一茶は、歴史に詳しくない人でも知っているのではないでしょうか?
最近では、俳句を作る番組も放送されており、俳句が身近になってきていると思うので、是非始めてみては如何でしょうか?
最後までお読み頂き有難う御座いました!