こんにちは!
今日は、日本三大名鐘について紹介したいと思います!
日本三大名鐘に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
神護寺とは、京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある古義真言宗の別格本山。
山号を高雄山という。
延暦年間 (782~806) に和気清麻呂が河内に建てた神願寺を、天長1 (824) 年和気仲世が現在地に移し、空海を住持とし、神護国祚真言寺とし、真言密教の道場として著名となった。
平安時代後期寺運は衰微したが、鎌倉時代初期、文覚上人により再建され、紅葉の名所としても知られている。
『薬師如来立像』『五大虚空蔵菩薩坐像』など平安時代初期の彫刻、絵画では平安時代の『紫綾金銀泥絵両界曼荼羅図』『釈迦如来像』、似絵の名手藤原隆信筆と伝える『源頼朝像』『平重盛像』『藤原光能像』などの肖像画、書籍では空海筆の『灌頂歴名』、『文覚四十五箇条起請文』など多くの国宝を蔵している。
天台、浄土両宗に属し朝日山と号する。
藤原道長の別荘をその子頼通が譲り受け仏寺としたもので、永承7 (1052) 年に本堂、翌年に鳳凰堂 (国宝) を造立。
その後法華堂、多宝塔、宝蔵などが建てられたが、延元1=建武3 (1336) 年兵火で焼け、室町時代の衰運を経て、現在では鳳凰堂、観音堂、鐘楼だけが残る。
鳳凰堂は阿弥陀浄土を具現化したもので、扉や壁面は、『九品来迎図』や『日想観図』などの板絵 16面 (国宝) や雲中供養仏で飾られている (平等院鳳凰堂壁扉画 ) 。
本尊『阿弥陀如来坐像』は定朝の作 (1053、国宝) 。
※定朝とは、平安時代中期最大の仏師。
康尚の子または弟子。
寛仁4 (1020) 年康尚とともに法成寺無量寿院の丈六『阿弥陀像』9体を造立したのをはじめ、万寿3 (26) 年中宮の安産祈祷のために釈迦三尊など 27仏を、翌年法成寺釈迦堂の百体釈迦像、長元9 (36) 年後一条天皇の法事の三尊仏、長久1 (40) 年後朱雀天皇の念持仏、天喜1 (53) 年唯一の遺品である平等院鳳凰堂の『阿弥陀如来像』などを造立した。
この間、治安2 (22) 年法成寺造仏の賞として法橋に叙せられ、仏師が僧綱位を得た初例となり、仏師の社会的地位を向上させた。
また永承3 (48) 年には興福寺の諸仏造立の功で法眼となる。
寄木造の完成者、和様彫刻の大成者、また世襲的仏所組織の確立者として後世大仏師の祖と仰がれ、彫刻史上高く評価される。
園城寺とは、滋賀県大津市園城寺町にある天台宗寺門派の総本山。
延暦寺を山門というのに対し、寺門という。
天智、天武、持統の3天皇の御産湯の水を汲んだ井戸があったということから、俗に三井寺の称がある。
大友皇子創建といわれ、平安時代に円珍が入唐帰朝後に再興した。
円珍寂後山門徒と抗争を繰返したが、延暦寺と並んで天台密教寺院、三井修験の本山として寺威はすこぶる興隆した。
堂塔伽藍は幾度かの災禍で焼失し、安土桃山時代以降に再建された金堂、勧学院客殿、光浄院客殿などは国宝建造物。
円珍関係の資料、『不動明王画像』 (黄不動 ) など多数の国宝を収蔵している。
延暦寺第5世座主。
天台宗寺門派の祖。
俗姓和気氏。
母は空海の姪。
15歳で叡山に登り、座主義真に師事。
20歳で官試に及第、菩薩戒を受ける。
以後 12年間籠山修行。
仁寿1 (851) 年内供奉十禅師。
同3年入唐。
以後5年の間中国各地で顕密両教などを学ぶ。
天安2 (858) 年帰国。
441部 1000巻の経疏を伝えた。
叡山山王院に住す。
園城寺を再興し、貞観5 (863) 年同寺に灌頂壇を設ける。
同 10年以後 23年の間天台座主。
元慶7 (883) 年法眼和尚位。
寛平2 (890) 年少僧都となる。
円珍以後、第9世長意を除き第 13世尊意にいたる7代の座主は、ことごとく円珍の門下から出た。
没後の延長5 (927) 年智証大師を追諡。
彼の思想的特色は、円仁の理同事別の対法華大日経観をさらに円劣密勝にまで進めた点にある。
著作には『伝教大師略伝』『行歴抄』『山王院在唐記』『法華論記』『授決集』『諸家教相同異略集』などがある。
如何でしたか?
どの鐘も、立派な鐘ですね。
私は、平等院しか行ったことがないので、神護寺と園城寺にも行ってみたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!