こんにちは!
今日は、日本三大湖城について紹介したいと思います!
日本三大湖城に選ばれたのは、
高島城(長野県諏訪市)
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
松江城とは、島根県松江市殿町にあった平山城(ひらやまじろ)。
江戸時代初期に幕府の山陰側の拠点として築かれた城。
国指定史跡。
関ヶ原の戦いの戦功により出雲・隠岐24万石を封じられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、月山富田城(がっさんとだじょう)(安来市)に入城したが、軍事・経済の中心に適さないとして、1607年(慶長7)に松江の亀田山に築城を開始した。
松江城が完成したのは1611年(慶長16)、5層六重の天守閣を中心に6基の櫓(やぐら)を構えた近世城郭である。
天守の鉄砲狭間(てっぽうはざま)、軒裏の石落とし、地階には籠城用の大井戸や兵糧蔵など、実戦を想定して築城されたことが随所にみられる。
堀尾氏は3代忠晴に世継ぎがなく途絶え、京極忠高(きょうごくただたか)が入城したが嫡子がなく断絶。
1638年(寛永15)信州松本から松平直政(まつだいらなおまさ)が入封し、以来松平氏が10代230年、明治維新まで続いた。
1875年(明治8)有志らの奔走で天守閣は解体を免れたが、それ以外は取り払われてしまった。
現存する天守閣の中で、姫路城、松本城、松江城だけが5層の天守閣を持っている。
旧態をよく残し、山陰地方における代表的な近世城郭として国史跡に指定され、天守閣は国の重要文化財に指定された。
天守、石垣、土塁(どるい)、櫓台、堀などの遺構が整備され、発掘調査などをもとに2001年(平成13)、南櫓、中櫓、太鼓櫓が復元された。
千鳥城とも呼ばれる。
膳所城
江戸時代に膳所藩の藩庁が置かれた城である。
琵琶湖に注ぐ相模川の河口に築かれ、琵琶湖にせり出すように本丸・二の丸・三の丸などの郭がつくられていた。
移築されて現存する大手門、北大手門が国の重要文化財に指定されており、松江城(島根県松江市)、高島城(長野県諏訪市)とともに日本三大湖城の1つに数えられている。
関ヶ原の戦いの翌年の1601年(慶長6)、徳川家康が大津城(大津市)を廃して、交通の要衝の瀬田を押さえる新城の建設を決め、築城した城である。
城の完成後、大津城の城主であった戸田一西が3万石で入城した。
その後、戸田氏が移封されたのちは、複数の譜代大名が交替で城主を務めたが、1651年(慶安4)に本多俊次が7万石で入城後、城主は本多氏の世襲となり、明治維新を迎えた。
俊次の入城から11年後の1662年(寛文2)に地震により城の建物が倒壊し、俊次は大改修を行っている。
1870年(明治3)、明治政府から廃城令(太政官布告)が発布されると、旧藩士らにより天守をはじめとする建物の解体と移築が行われた。
現在、本丸跡は膳所城跡公園として整備されている。
園内には石垣の一部が現存する。
また城門が模擬再建されている。
かつての城門が市内の膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に移築され現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されているほか、高麗門は大阪府泉大津市松ノ浜の細見記念財団に移築され現存する。
また、市内の芭蕉会館に本丸隅櫓(すみやぐら)が移築され現存しているが、大幅な改造が行われたために、往時の原形をとどめていない。
高島城
高島城とは、長野県諏訪市にあった平城(ひらじろ)。
同市指定史跡。
江戸時代直前に築かれ、諏訪藩の藩庁の置かれた城である。
1542年(天文11)、諏訪頼重が武田晴信(武田信玄)の謀略により自害して諏訪惣領家は断絶したが、頼重の従兄弟の頼忠はその後、諏訪大祝として信玄に仕えた。
1582年(天正10)、武田氏が滅亡し、続いて本能寺の変で織田信長が死去すると、頼忠は高島城に入って諏訪氏の家督を継いだ。
その後、頼忠は徳川家康に敵対したが降伏して諏訪郡の本領を安堵された。
この頼忠が入城した城は現在の諏訪市街北方の茶臼山にあった中世以来の諏訪氏の居城の旧高島城で、頼忠はその後、金子城(諏訪市)を築き、その居城とした。
その後、頼忠は家康から武蔵国への国替えを命じられ、諏訪には日根野高吉が入封した。
高吉が諏訪湖畔に築いた城が、今日城跡として残っている高島城である。
高吉は信長、秀吉に仕えて築城技術を学んでおり、それを生かして、3重の天守と8つの櫓(やぐら)を持つ総石垣の連郭式の平城を完成させた。
この城は7年間で完成させたため、地元の負担は大きく、過酷な労働に苦しんだことが言い伝えとして残っている。
また、同城築城の際、金子城の石材はすべて持ち出されたといわれている。
この城は「諏訪の浮城」と呼ばれるとおり諏訪湖に突き出した岬の突端にあったが、江戸時代の諏訪湖の干拓で、現在は湖畔から離れた位置にある。
この城を築いた日根野氏は1601年(慶長6)に下野国(栃木県)の壬生藩に転封となったため諏訪頼水が2万7000石で入封し、再び諏訪氏を領主として明治を迎えた。
1871年(明治4)の廃藩置県で諏訪地方は高島県となったが、この時、高島城は県庁として利用された。
しかし、1875年(明治8)には天守を除く城内の建物がすべて破却処分となり、その翌年には高島公園がつくられて一般に開放され、1900年(明治33)には諏訪護国神社が建てられた。
当時の城跡は現在、高島公園および市街地となっている。
かつての二の丸、三の丸は市街地となっているが、本丸は高島公園となり、天守、櫓、門、塀が復元されている。
本丸(高島公園)の石垣や、北および東側の堀は当時の遺構である。
また、かつて、三の丸にあった城門が同公園内(本丸)に移築されているほか、どこにあった城門かは明らかではないが、市内の温泉寺と浄光寺の山門として移築され現存する。
島崎城とも呼ばれる。
如何でしたか?
膳所城は、建造物が殆ど残っていないようですね。
膳所という地名が、前は読めず、進学校の膳所高校が甲子園に出ているのを観て覚えたのが、印象に残っています。
最後までお読み頂き有難う御座いました!