こんにちは!
今日は、日本三大芸能について紹介したいと思います!
日本三大芸能に選ばれたのは、
能
歌舞伎
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
能
能とは、日本の古典芸能。
橋懸りという独特な構造の舞台で、地謡の合唱と囃子方の伴奏で舞う歌舞劇。
平安時代に発生した猿楽が、鎌倉時代に猿楽の能と呼ばれるようになり、室町時代に足利義満の庇護のもとに観阿弥、世阿弥父子によって大成された。
主演者をシテ、助演者をワキといい、曲目によっては数人の出演者(シテヅレ、ワキヅレ)が登場する。
シテは面(能面)をつけることが多い。
夢幻能と現在物に大別される。
また神、男、女、狂、鬼の5つに分類され、上演順位が定められている。
江戸時代以来、このような五番立の番組を正式とし、能と能との間には狂言を上演したが、今日では狂言 1番、能 1番でも上演される。
現行曲は約 240曲。
1957年国の重要無形文化財に指定。
人形浄瑠璃とは、義太夫節の浄瑠璃を三味線で語るのに合わせて人形を操る演劇で、日本の近世芸能の1つ。
今日では文楽と呼ばれ、古典芸能として国の保護を受けている。
安土桃山時代末期(1590頃)に、西宮の傀儡師(人形遣い)が、中世以来の語り物である浄瑠璃、新輸入楽器三味線と結合して成立した。
創始の人物として、西宮の夷舁(えびすかき)引田淡路掾(ひきたあわじのじょう)や浄瑠璃の語り手であった京の次郎兵衛などの名が伝えられるが、確証はない。
その後約 80年間は古浄瑠璃の時代である。
貞享1(1684)年竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本座を創設し、作者近松門左衛門とともに、近世的、劇的な語り物としての義太夫節を確立。
以後、義太夫節が浄瑠璃界の主流となり、元禄16(1703)年義太夫門弟豊竹若太夫(越前少掾)が豊竹座を創立。
享保以後、竹豊両座が対立して人気を競い、享保19(1734)年三人遣いの人形操り法が創始され、元文4(1739)年には完成をみた。
作者、太夫、人形遣いに優秀な人材を得て、延享~寛延期(1744~51)には歌舞伎を圧倒する全盛期を迎える。
文化年間(1804~18)以降は、本来の中世的性格が近世後期の時流に合わず、旧作を反復上演する伝承の時代となるが、三味線など音楽的な面の技巧や太夫の語り方などに芸の洗練が進められ、今日にいたる芸風を築いた。
1984年、大阪に国立文楽劇場が人形浄瑠璃専門劇場として開設。
1955年国の重要無形文化財に指定。
歌舞伎
歌舞伎とは、日本の古典演劇の1つ。
せりふ、音楽、舞踊の各要素が混然一体となっている。
歌舞伎は「傾(かぶ)き」(異常、放埒の意)のあて字。
江戸時代初期の出雲の阿国のかぶき踊が始まりとされ、そのまねをした遊女たちが茶屋や風呂上がり風俗をミュージカル風に演じてみせた。
しかし風俗紊乱のかどで女歌舞伎が禁止され、その二十数年後には少年たちによる若衆歌舞伎も禁止された。
以後は「物真似狂言尽」として男性俳優のみによる演技中心の舞台が展開し、その結果、女方の演技術が生まれた。
元禄期にいたって歌舞伎は完成度を高め、劇作者としては近松門左衛門その他を出し、坂田藤十郎、芳沢あやめ、1世市川団十郎らの名優が輩出して、和事、荒事という特殊な演技術を生んだ(元禄歌舞伎)。
また『役者評判記』という劇評書が毎年出版されて演技評が確立した。
享保期には瀬川菊之丞や中村富十郎によって女方舞踊が完成され、天明期には立役中心の浄瑠璃所作事が江戸で発達。
以後、劇壇の趨勢は上方から江戸に移り、化政期には鶴屋南北によって生世話物が創始され、また舞踊に変化物が生まれて爛熟期を迎えた。
7世市川団十郎、5世松本幸四郎、5世岩井半四郎らの名優が続出して演技術が極度に発達したが、同時に伎芸の固定化がみられ、演技、演出の型や家の芸が生まれた。
幕末には河竹黙阿弥による白浪物が生まれ、4世市川小団次が活躍。
明治以降は一種の革新期を迎え 9世市川団十郎、5世尾上菊五郎を中心に、活歴物や散切物が現れ、大正期には 2世市川左団次を中心に新歌舞伎という新しい様式をみせた。
第2次世界大戦後は、擬古典から古典を意識しないものまで種々の新作が上演され、3世市川猿之助によるスーパー歌舞伎という新しいジャンルが出現する一方、国立劇場を中心に上演される復活狂言も1つの傾向を示している。
1965年国の重要無形文化財に指定。
2008年世界無形遺産に登録された。
如何でしたか?
どれも、日本の伝統芸能を代表するものですね。
私は、高校生の時に能を観たことがあるのですが、当時の私にとっては内容が良くわかりませんでした。
歴史を学んだ今、もう1度観てみたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!