こんにちは!
今日は、日本三大水城について紹介したいと思います!
水城とは、海、湖、河川などに面して築かれた城のことです。
日本三大水城に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
国指定史跡。
三重の天守を擁し、水門を設けて内堀・外堀に海水を引き入れ、船倉を設置して軍船を配備した水城(みずじろ)であった。
豊臣秀吉の四国制圧後、1590年(天正18)讃岐(さぬき)国に封ぜられた生駒親正(いこまちかまさ)が、瀬戸内海に面した野原荘に築き、この地を高松と改称した。
築城にあたって、築城術の大家であった藤堂高虎や黒田如水(じょすい)などの意見を聞いたという。
生駒氏は4代高俊(たかとし)の時にお家騒動で転封になり、替わって1642年(寛永19)、水戸城主徳川光圀(とくがわみつくに)の兄松平頼重(まつだいらよりしげ)が入城した。
頼重は天守、石垣の修築に取りかかり、東の丸、北の丸も新たに造成した。
2代藩主の頼常(よりつね)(光圀の長男・養子)は、新曲輪(くるわ)に月見櫓(つきみやぐら)や水の手門などを造り、海の防備を強化した。
1869年(明治2)の版籍奉還とともに城郭は兵部省(後の陸軍省)に接収され、外堀が埋め立てられ市街化が進んだ。
この時期、城内の多くの建築物が取り壊され、1884年(明治17)に老朽化のため天守も解体された。
1890年(明治23)に松平家に払い下げられ、天守台に玉藻廟(たまもびょう)、三の丸跡に松平家別邸の披雲閣(ひうんかく)を建設した。
現在、城跡は玉藻公園となり、天守台、北の丸月見櫓、水手御門、旧東の丸艮櫓(うしとらやぐら)、石垣、堀などが現存する。
JR予讃本線・高徳本線高松駅から徒歩3分。
玉藻城(たまもじょう)ともいう。
三重の堀に海水を引き入れ、海から直接、船が堀に入れる海城(うみじろ)の機能ももっていた。
関ヶ原の戦いの戦功により、藤堂高虎は伊予国の西半分の領主となり、1602年(慶長7)に海陸の要衝の今治に築城を開始、1604年(慶長9)に完成させた。
1608年(慶長13)、高虎は伊勢の津に転封するが、今治は飛び地として残り、養子の藤堂高吉を城代として入城させた。
この時、今治城の5層の天守は丹波亀山城(京都府亀岡市)に移築されたと伝わる。
1635年(寛永12)藤堂氏に替わって、松平(久松)氏が今治藩主となり、明治維新まで230年間居城とした。
明治時代の廃城令により、ほとんどの建築物が取り壊され、現在、城跡は吹揚公園(ふきあげこうえん)となり、石垣や内堀などが現存する。
また、コンクリート造りの模擬天守のほか、二の丸に山里櫓(やまざとやぐら)、山里門などが復元されている。
JR予讃本線今治駅から徒歩15分。
吹上城(ふきあげじょう)、吹揚城(ふきあげじょう)ともいう。
周防灘(すおうなだ)に臨む山国川河口の地に築城され、堀には海水が引き込まれている。
本丸を中心として、北に二の丸、南に三の丸があり、全体がほぼ直角三角形の扇形をした縄張りであった。
1587年(天正15)、豊臣秀吉の名軍師・黒田如水(じょすい)が古城、犬丸城を修築したもので、1620年(元和7)に細川忠興(ただおき)が入封。
1877年(明治10)の西南戦争で残っていた建物が消失し、現在は模擬天守と櫓(やぐら)がある。
福沢諭吉旧居と並び、城下町中津を代表する観光名所となっている。
扇城(せんじょう)とも呼ばれる。
如何でしたか?
全て瀬戸内海に面している都道府県なんですね。
それは、瀬戸内海から攻めてくるのを警戒しているところもあったのでしょうか?
何れにせよ、瀬戸内海では数多くの海上戦が行わてましたね。
私は、まだ1つも行ったことがないので、是非行きたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!