こんにちは!
今日は、三跡について紹介したいと思います!
三跡とは、平安時代初期の三筆に対して、中期の3人の能書家のことを言います。
以前、三筆について紹介しましたが、平安時代中期にもそのような括りがあるのですね。
三跡に選ばれたのは、
藤原佐理(すけまさ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
正しくは「みちかぜ」と読む。
三跡の1人。
若い時から能書の誉れ高く、宮廷の障子、屏風に筆を振るい、66歳の時、天徳詩合の清書をして「能書之絶妙也、羲之再生」と称賛された。
穏やかな格調の整った書風は、中国の書風から離れて日本化された和様の典型であり、上代様の完成の基礎を作った功績は大きい。
遺墨には、延長5年(927年)の『円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書』(国宝、東京国立博物館)、延長6年(928年)の『屏風土代』 (宮内庁三の丸尚蔵館)、『玉泉帖』(同)、『三体白氏詩巻』(国宝)等がある。
伝称作品として著名なものは『継色紙』『本阿弥切』『秋萩帖』等。
「さり」とも呼ばれる。
摂政太政大臣実頼の孫で、左少将敦敏の長子。
伊予大三島の大山祇神社、京都六波羅蜜寺等の扁額を書き、関白藤原道隆の東三条第の障子に和歌を書いた記録が知られる。
作品には『詩懐紙』(969年、国宝)、『恩命帖』(宮内庁三の丸尚蔵館)、『離洛帖』 (991年、国宝)、『頭弁帖』(992年)等があり、『綾地切』『筋切』等、伝称作品も多い。
「こうぜい」とも読む。
伊尹の孫で義孝の子。
寛和2年(986年)に16歳で昇殿を許されてから蔵人頭、参議、中納言を経て正二位権大納言に昇った。
故実に明るく詩文の才能に優れていたので、世に「四納言」の1人と讃えられた。
書家としても名高く、小野道風、藤原佐理と共に「三跡」の1人。
その書風は世尊寺流として後世に伝えられた。
『粘葉本和漢朗詠集』等の伝称作品をはじめ、寛仁2年(1018年)の書写奥書のある『白楽天詩巻』、日記『権記』等の作品がある。
またその詩は『本朝麗藻』に見えるが、漢詩の秀句を集めた『行成詩稿』が残っている。
日記『権記』は、当時の政治や制度を知る史料。
如何でしたか?
私も高校の時の日本史で多少学びましたが、どういう人物だったのかは知らなかったので、とても勉強になりました。
歴史に関する記事は、既に多く存在しますが、自分の勉強も兼ねてこれからも投稿していきたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!